toripiyotan

何回もおなじこと喋る

憂鬱と不安で忙しいとり日記 11/27

実は日記を書くことがあまり上手くない。10代前半以来、数ヶ月、数年と間が開くことあっても必ず書きに戻ってくるしブログもここを含め断続的に使ってきたのだから自分でも日記を書く生き物であると自己認識している節はあるものの、今日を頭から順を追って何をしたのか何を考えたのか記していくことができない。わたしの内側、頭の中は時系列はごちゃごちゃで、感情は混乱していて、記憶はいつも唐突に何かを叫んでは急速に消えていく。だからそれをそのまま文字にしようにも、まるで誰かにどんな夢を見たか説明するみたいに違和感があって頭の中と伝えることの大きなギャップは言葉を発する端からどんどん広がっていってしっくりこなくて、もうむしろ語ること自体の方が語らないことよりも苦痛に感じてしまうようになる。

けれど、語ることは良いことだ。それが自分だけの日記帳であっても、誰か通りかかりの他者の目に触れる場所であっても。

個人的なことをオープンにすることは苦痛を伴いながらも、ゆくゆくは私たちの癒しとなる。

だから時系列がめちゃくちゃで、感情的に混乱していて、急におかしなことを挟んでは別の話に跳んだとしても、たまにはトライするのも悪くないと思う。

とはいえ、今日もあまり大したことはしていないのだけれど。

大したことをしていない、それがわたしにとって大問題だということを除けば。

今日はなんだかメソメソしていた。昨日もその前も、なんとも言いようのない悲しみの(悲しさが存在するときの空気感だけがいて本人はいないような)感覚がずっとあって、友達と楽しい話をしてもその後には無気力と疲れと悲しみがそばにいてなんともつらかった。冬季うつかもしれない。

犬の散歩に行けていないことが、さらに悲しみの上に巨大な罪悪感と自己嫌悪の漬物石を乗せてくる。重たくてたまらない。

わたしのこのありようは疾病ではないのかもしれないし、治療あるいは完治は存在しないかもしれない。いつも、これが永遠に続いたらどうしようと思って恐怖でいっぱいになるけれど、本当の問いはこれが続けられなかったらどうしよう、なのかもしれない。つまり、病を抱えたまま働きもせず、しかし食べ物と快適な寝床の保障はされている状態で生き続けることが許されなくなったらどうしよう。

いまキーボードから手を離して、出来ていないことや怖いことについてどんどん考えてしまっていた。あまり良くない方に向かっているので、川のそばを夕方歩いたことを思い出そう。

今住んでいる場所の前には川があり、そこから西側には歩いたことがあるけれど、東側の川沿いを歩くことがあまりなかったので行ってみた。歩く前には、きっと思い切って外に出てもしゃがみこんでメソメソして動けなくなるのだなどと過去の記憶と妄想がごっちゃになったもので身がすくんだのだけれど、友達と電話で話しながら歩いてみたら話すことと周囲の風景を写真に撮ることに忙しくて、なんだか気分よく1時間ほど歩いてこれたし、夜ごはんにおやつまでもりもり楽しめた。夕方の光は美しくて、どんな時でもどんな場所でも必ず時間を見計らって外に出るだけで美しいものが見られるのだからお得なミュージアムだと思う。

今日少し歩けたから明日が『元に戻る』わけでもないし『治る』わけでもない。そもそもセロトニン再吸収阻害なんとか(抗うつ薬など)を飲んでいるのにこんなに調子に波があり信用できない自分の状態とともに生きなければならないのだから、誰かとの約束や契約などあまりに無責任だし怖いのでできないのだけれど、それでも生存し、ごはんを食べ、できるだけ心身の健康を意図的に損なわないように努力し続けなければならない。それがおそらくわたしの文化的生き物としての第一条件である。けれど、おお、なんと地味で退屈で、しかし大変な労力を要求する活動だろう。こんなに大変なことを出来て当たり前のように設定しないでほしい。これは最低限のことなどではない。誰しも失えばしみじみとわかるだろう。よく「ありがたみ」という言い方で表現されているのを見かけるけれど。

昔は誰かの仕事によって支えられて社会は出来ているように考えていたけれど、私たちは誰かの仕事ではなく誰かの存在によって支えられている。誰かがそこで息をして、活動しているから、わたしも生きているし、存在していられる。仕事が存在者を超えることなんか絶対にない。そのように見えるとしたら、それは社会の方が間違っているし、失敗している。

それを固く信じていなければ、わたしはもう漬物石の重さで潰れて粉々になってしまいそうだ。