toripiyotan

何回もおなじこと喋る

星と井戸[ショートストーリー]

※注意   暴力、虐待に関する表現があります。

 

 

 

地下はそりゃあ酷い臭いだったよ。汚物も食べ残しも腐ったものも腐れないものも街中からいっしょくたに集まってくるんだから。それをコンベヤーの上にぶちまけてひたすら分別していくんだ。とんでもないものが混ざっていることなんか日常茶飯事だった。ときには良いものもあるんだけど、大体ひどいものだよ。動物の死骸とかね。けどまあそんなものばかり見ているともうただの作業になってどうとも思わなくなるものさ。たまにすぐにいなくなる人達もいたなぁ。だけどどのみちあそこにいるのはみんなほんの一時的なことだった。

 

え?そう、おれはずっといたよ。おれの親父さんはグレイラットにしては珍しくてそこを何十年と定住地にして暮らしていたから。おれもそこで育ったんだ。地下の仕事に従事するやつらにはみんな灰色の作業着が支給されて、それを着て地上を一列になってぞろぞろ歩いて回るものだからグレイラットなんて呼ばれてたんだ。蔑称だけどね。ほらここを見て、手首に痣があるだろ。あんまり長いことブレスレットをつけていたから、もう取れないんじゃないかな。政府は地上からホームレスを一掃して街を「きれいに」するためにふつうじゃないやつらを地下に押し込んだんだ。でもまともに管理する手間は惜しいから番号札みたいなブレスレットを付けさせて、仕事をしているかと、食料品の支給と、医療クーポンの配布と、ミミズの巣穴みたいな寝床の提供だけしてたんだ。食料品て言ったってみんな缶詰だよ。おれを180センチまで育てたのは政府支給の缶詰ってわけだ。

 

さっき酷い臭いって言っただろう?もちろんマスクはあったさ、有毒ガスの発生だってあり得たんだから。大した役には立たなかったけどね。だけどそんな酷い臭いでも、人間の脳ってのは刺激に慣れるものなんだな、どうということもなくいられるようになっちまうんだよ。一日中地上でゴミ集めのシフトの後なんかは地下へのスロープに近づくとそれがグワッと分かるんだ、どれだけ酷いかって。鼻から入って肺や胃を腐らせて溶かしていくような強烈な臭いさ。だけどおれはそこで育ったからな、もう、なんとも言えない安心を感じたもんだ。今でもあれを探してドブ川まで行くことがあるけどね、ぜんぜん違うんだよ。この街は綺麗すぎるんだな。そう思わないか?

 

親父のことが聞きたいのか?あぁ、良いやつだったよ。というかまぁ、普通の父親さ。血が繋がっているかは分からなかったけどな。物心ついた頃には親父と地下で暮らしていたから、おれの母親が誰なのか、生きてるのか、親父の女だったのか、それとも親父がゴミ箱からおれを拾ったのか、そういった話はしなかった。大体そんなこと聞いてどうだっていうんだ?おれたち誰だって生まれた時のことなんか知らねぇんだし、気づいた時に親父がそこにいるならそいつと生きていくしかねぇわけだ。さっきも言ったように親父は珍しい古参のグレイラットだった。変色したブレスレットが手首の肉に食い込んでるくらい古参のだよ。汚ねぇひとり部屋でふたりで暮らしてた。親父がベッドで、おれが床で寝て、ひとり用の缶詰を薄めて少し分けて育ててくれた。おれはラットとして登録されちゃいないから缶詰の支給がなくてね。な?良い親父だろ?親父はおれのことをあんまり好いちゃいなかった。見た目のせいだな。親父は恰幅が良くて逞しかったけど、ガキの頃のおれはがりがりに痩せて青白くて引っ込み思案でおどおどしてたもんだから、仕事で疲れた親父はイラついてたんだと思う。おれはよくベルトで殴られたよ。それでも親父が他のラットたちにおれのことを「貸し出し」するようになってからは違うな。機嫌が良い時なんかは「息子や」なんか言ってくれたしな。え、貸し出しはそりゃ色々だよ。親父は酒飲みだったけど酒は支給品にはないからな、拾い物か現金が必要だった。だから仲間にガキを30分か1時間貸して好きにさせるのさ。おれにとっちゃ楽しいことなんかないけど、それで親父は酒が手に入って俺はベルトのバックルで殴られることもないんだから、まぁ。

 

おれがひとりでチョロチョロできるようになると親父は時々おれを仕事に連れていったよ。それまではずっと地下から出たことなかったな。でも地下も地上もたいして変わらなかった。何かもっと複雑に色んなことをやっているんだなという感じはしたけど、おれは地下のシンプルさに慣れすぎていたし、猥雑さを心地よく思うようになってたからな。あぁ、それからあの天気!あれには参った。凍えそうなほど冷たい風がごうごうと吹いているのにひどく眩しい太陽がぎらぎら照っていてとんでもないと思ったもんだよ。ずっと地上で生きてるひとには分からないだろうけどね。

 

親父はどんどん酒の量が増えていって、仕事に出ることが減って行った。だから支給の缶詰さえ滞るようになったよ。おれはもっと頻繁に貸し出されるようになったし、それでなんとか飢えを凌いでたんだ。仕方ないよな、長年ラットをやってるってのは大変なんだ。地上の人間たちにとっては見たくない対象だからリンチに遭うようなことはねぇんだけど、灰色のおれたちは完全にいないものとみなされる。わかるか?存在しないみたいに、誰も見ないんだよ。もし見てしまったら自分も穢れるとでも思っているのかな?ふふふ。しかしお上品な人間てのはよくもああ頑なに見ないことを徹底できるもんだ。時々本当におれたちは透明だったんじゃないかと思うよ。

 

ある日親父が死んだ。ずっと咳き込んでいたのがずいぶんひどかった夜があって、おれの顔を見てると余計に気分が悪くなるって怒鳴られたもんだから、夜メシの缶詰だけ開けてやっておれは部屋を出てひと晩地下を端から端までブラブラしてたんだ。一番奥は焼却炉になっていてものすごい熱さだ。早朝に部屋に戻ったら親父は口を開けて眠ってた。だけどいびきもかいてないしいつも大きく膨らんだり萎んだりする腹が止まってた。こっそり近寄ってみても息の音が聞こえなかったよ。それでおれは、もしも中途半端に死んでたら親父がかわいそうだと思って自分の毛布を丸めて親父の顔の上に押し付けた。車に轢かれた猫を見たことあるか?内臓が出てもう死ぬしかないのに痛みに飛び上がってじたばたしてるのさ。親父がそんなことになっちゃかわいそうじゃないか。おれはそのまま50まで数えた。そのまままた50まで数えた。それから50。また50。恥ずかしい話だけどな、その頃のおれは50までしか数字を知らなかったんだ。そうして50を6回数えても親父は動かなかったからおれは丸めた毛布をどけた。親父は缶詰を食べてなかったから代わりに食べたよ。

 

親父の灰色のツナギはおれにはぶかぶかだったけれどとにかく着ることにした。錆びついたブレスレットをなんとか外しておれは自分の手首にはめた。おれは親父の代わりに親父の番号でラットの仕事と缶詰の支給と医療クーポンを引き継いだ。やり方はずっと見てきたからな。難しいことはなかった。大変だったのは死んだ親父の死体の方さ。おれは親父の生命を失ってだらりとした重たい体をゴミの最終目的地の焼却炉まで引きずって行ってどうにか放り込んだ。親父は長い時間を地下で生きて死んだ後まで地下で灰になったんだ。一本気ってもんだろう?

 

親父が死んだ数年は幸せだったよ。一人前になった気がした。とはいえ当時12だったのか15だったのか18だったのか、生まれた歳を知らないもんだから数えようがないが、まだ毛が生え揃う前のガキだったことは確かだ……おっと若い女性の前ですまない。とにかくおれは地上をまわり、地下で分別をし、ひとりぶんの缶詰をひとりで食べて、それからようやく初めてベッドで眠った。良いものを見つけてはこっそりポケットにしまっておいて部屋で自分だけで眺めたり並べたりもした。おれは美しいものが好きだった。色ガラスの破片とか、子供の靴から落ちたきらきらするビーズとかね。腐臭と熱気の充満する不潔な我が家のちょっとしたアート作品ってわけだ。

 

だけど、あれほど美しいものをみたのは初めてだった。

 

おれはその朝は夜明け前からオフィス街ってやつの道路でゴミ箱を押してたんだ。いつも通りの仕事だ。少しずつ地上のやつらが道に増えてくる時間になっていた。そのとき夜の空色の上下を着た…後になってビジネススーツってものだと知ったんだが…若い男がおれに向かって飲み物の入った紙コップを投げつけた。いや、おれの押しているゴミ箱に向かってだったんだが、おれのツナギの胸に飲みかけのコーヒーを撒き散らしながらカップは通過して行った。そいつは「失礼」と言っておれの顔をほんの一瞬見た。おれは地上の人間と目を合わせたのは初めてだったよ。後ろに撫でつけた黒髪で青い目だった。青い目。美しい青い目。

 

そのひとが歩き去っていく後ろ姿を見送って、おれは紙コップを拾い上げてゴミ箱に入れてまた歩き出したよ。だけど一日中そのことばかり考えていた。あの輝きをもう一度見たかった。色ガラスやビーズのように手に触れたかった。

 

おれはできるだけ同じ時間の同じ場所に通ってそのひとを待った。それからどこに行くのか後をつけていつどこをどんなパターンで行き来するのかを突き止めた。難しくはなかったよ。グレイラットを見ようとする地上の人間なんか誰もいないからね。おれは毎朝のオフィス街を担当するようになった。みんな嫌がるんだ、不可抗力であってもラットに堕ちることを恥じているから。だからいつだってそのシフトに入れたし、夜はそのひとの家の窓を見上げて歩道にじっと立ってたよ。何度も何度も何度も見たけれど、見られることは一度もなかった。あんな気持ちになったのは初めてでおれは胸の高鳴りを持て余していた。

 

なぁ、きみも誰かを愛したことがあるかい?本当に素晴らしい最高な気持ちと最悪な苦しさが同時に体の中を暴れているんだ。それでやるべきことはひとつだと思った。勇気を出すべきときが来たんだ。

 

おれはあのひとの行動パターンと地上の街の構造をよくよく重ね合わせた。それでいちばん良い時間は夜が来る前のあのロマンチックな薄暮れ時だと思った。ゴミ箱を押して地下から這い出た。緊張はしてなかったよ。ようやくこの日が来たと思って、清々しかった。おれは建物からも道からも見えない路地の影に身を潜めた。潜める必要なんかないんだけどね、誰も見やしないんだから。あのひとが歩いてきたときには心臓が跳ねて飛び出しそうだった。おれの横を通り過ぎようとしたところで捕まえて、腕で首を締め上げた。そのまま路地に引き込んで気を失ってじたばたしなくなるまでそのままでいたよ。それから口にボロ布を詰め込んで、手足を拾い物のロープで縛って、眠っているあのひとを空のゴミ箱に押し込んだ。手足を曲げてすっぽり入ったよ。喜びで爆発しそうだった!おれは急いで重たくなった大事なゴミ箱をゴロゴロ押して地下へのスロープに向かって歩いて行った。あたりはどんどん暗くなって月が輝きはじめていた。地下からの安心させるような腐臭が上がってくるあたりでおれはゴミ箱の蓋をあけてみた。我慢できなかったんだ。そうしたらあのひとは起きていて、恐怖で目を見開いてこっちを見ていた。あの青い目で。夜と月の光に照らされて暗い深い色になった目で。口にボロ布をくわえたままがたがた震えながら。おれは背骨の下から首筋までとんでもない快感が駆け上るのを感じたよ。そんな強烈な快感は生まれて初めてだった、あぁ。

 

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わたしは狭い小さな食料品店のカウンターの前で膝を突き合わせている相手から聞かされた話に頭が真っ白になっていた。こんなインタビューになるはずではなかった。ただN市が20年前にようやく廃止した地下処理施設での人権侵害と搾取労働について経験者の体験を集めていただけのはずだった。わたしとの約束のために店のドアにはCLOSEの札がかけられ、ブラインドは閉じられていた。来たときには強烈な陽光がその隙間から線状に差していたはずなのに、今はどんよりと暗い。雨になるのかもしれない。わたしは蒸し暑さで滲んだ額の汗を手で拭って質問をしようとした。声が掠れてしまい喉を何度か鳴らしてどうにか言葉が発せる状態にしようとした。店主の背後の雑多な店内に目を向けると、品揃えの半分は缶詰だった。

 

「それで、そのあとは、どうなったんですか」

声は笑えるくらい小さく震えていた。わたしの脳は走り出すように言っていた。わたしの体は無理だと言っていた。椅子の上で彫像のように固まっているしかできない。カウンターの上に置いたレコーダーの赤い録音マークが消えている。充電は確認したつもりだった。いつ消えてしまったのだろう。

 

わたしの質問に、店主は肉の薄い頬を折り畳むように口の端をぐーっと上げてピエロのような笑顔の形を作った。わたしはそれにゾッとして冷たい汗が背中を流れ落ちた。

彼の目は深く真っ暗で、笑みからは程遠かった。