toripiyotan

何回もおなじこと喋る

アオとその両親が乗る自動車が事故を起こしたのは祖母宅から帰る山道でのことだった。 大きく広がる角を戴いた牡鹿を避けようと思わずハンドルを切った車は狭いセメント敷の道路を逸れ舗装のない木立のほうへと突っ込んでいった。幸い巨木がバンパーをひしゃげさせ、運転手を軽い鞭打ちにしただけに見えた。しかし後部座席に乗っていたアオにはそれまでの人生とこれからを分断するような変化をもたらした。アオは事故の瞬間に海を見たと言った。ビーチや海岸ではなく、潜ったこともない海底で魚やサメと共に強い急流に引き込まれていたと。両親はそれを見なかった。そして単なる事故のショックであろうとほとんど信じなかった。信じたのはいつも腕にしっかりと抱いているドットと名付けたジンベイザメのぬいぐるみだけだった。ドットに会話ができるわけではない。しかしアオはドットが信じていることを知っていた。なぜなら共にあの海の急流に乗っていたからだ。アオとドットは無二の親友となった。恐ろしい経験を、二度とない経験を共にした者同士で生まれる絆で結ばれた。

 

世界は少しずつ変化する。誰が変化させているのか、変化を敏感に感じ取れるのは誰なのか。それは社会的な死活問題となる。アオは鈍かった。ともに幼く素直でまごついていた旧友たちは、九つともなると自然と新たな社会を作り、新たなルールを課すようになった。大人の求めるルールとは別のルールであり、外の世界とは違うルール。学校の中の子どもたちだけの特別なルールでありそれは誰が牛耳るかによって有機的に変化していく。アオは乗り遅れた。というより理解できなかった。幼い頃から悪いと教えられたことが良いことになる。それを律儀に大人に報告すれば小突かれのけ者にされる。校則通りの服装で登校すれば笑われ、校則を破った靴下で登校すれば囁かれる。どこがまちがっているのかわからない。アオは幼なじみさえ遠くなったことを悲しんだ。しかしどうしようもない。新たなルールの奔流の中でアオはどうにか水面に顔を出し息を吸って吐いてくぐり抜けた。

 

帰宅しても自室でドットとすぐに眠りに落ちるアオを両親は心配した。特に父親はセラピストに会わせたがった。母親はあの年頃はそういうものだからと様子を見ようとした。あるいは変化を直視するのを避けた。もしも事故の後遺症であればどうしたらいいだろう。ハンドルを握っていたのは母親だった。病院では脳の検査まで頼み込んだが健康体であると診断された。元気がないわけではない、わがままになったわけでもない。なにか少し…違っている気がする。両親の勘を超えるものではなかったがふたりは気が気ではなかった。それでもアオが眠るに任せた。起きると以前の瞳の輝きが戻って見えたから。

 

アオはドットを抱いて眠った。そうすると毎回海に行けた。あの急流へ身を任せてどこまでも進む。ドットは現実のぬいぐるみの姿からおおきな胸鰭を広げた大人のジンベエザメの姿で隣にいた。透明のあるいは真っ暗な海を恐れもなく泳いでいく。ドットは横に長い口を開いて泳ぎながら食事をした。何をたべているのかアオには見えなかった。真似をして口を開けたが冷たい海水が喉から爪先まで突き抜ける感覚がしただけだった。ドットはちらりとアオに目を向けて笑った。アオも微笑んだ。彼らの間に言葉はなかったが心から満ち足りていた。最近では両親とも幼馴染とも級友たちとも感じられない強く温かい繋がりを感じられた。

 

一泊の課外学習に、アオはドットを置いて出られなかった。許可されてはいないが禁止もされていないのでダッフルバックの底にそっと忍ばせ、誰も見ていない間にこっそり布団に引き込んで眠った。たった一晩でも離れるのはつらく、自室ではないベッドでもドットを抱いていれば安心して眠れた。しかし目覚めるとどこにもジンベイザメはいなかった。アオは探した。布団をめくり、床をさぐり、どこかに蹴飛ばしていないかと部屋の隅にも目を向けた。すると窓際でにやにやと笑う級友たち数人が目に入った。ひとりは幼馴染のルイで、今年になってからはアオを無視してはこういうにやにや笑いをむけてくる。「ぬいぐるみもってくるなんてばかみたい」それはアオに聞かせたいけれどアオに向かって言っているわけではなかった。ただ自分達の言葉に自分達で笑って窓際を離れ、朝食のホールへ降りていった。アオは彼らのいた窓辺へ近づいて外を見た。窓から投げ捨てられたように前日の雨でぬかるんだ地面にドットが落ちていた。

 

アオは両親へ話さなかった。母親が洗ったドットは元と同じように離れた小さな目と横に大きく開いた間の抜けた顔でこちらを見ていた。しかしもう夢を見なかった。アオはドットを守れなかったことを後悔した。なぜドットとの間で感じられる繋がりを他の友人たちとは感じられないのか苦悶した。

 

理科の移動教室のため階段を登っていると、ルイとふたりの名前を知らない級友が踊り場でくすくす笑いをしていた。アオはルイとかつては互いの家を行き来し、自室で何時間も遊んで話して眠ったことを思い出した。このルールの奔流が起きる前まで、ほんの数年前まで、確かに互いのことを親友と言い、両親と同じかそれ以上の温かい繋がりを感じていたはずなのに。何かが変わってしまった。どうすれば取り戻せるのか。どうすればドットと行ったあの場所にルイとも行けるのだろうか。

 

アオはそのまま通り過ぎようとした。けれどふいにひらめきが貫いた。その喜びをそのまま声にした。「ルイちゃん」腕をつかむとルイはギョッとしてアオを見た。アオもルイも互いの目をこんな近さで見合うのは久しぶりのことだった。アオは身のうちに喜びの勇み足を感じた。そうだ、ドットの時と同じなのだ。同じことをもう一度すればいいのだ。共に危機的な状況を経験すれば。

 

アオはルイの腕を掴んだまま、階段の一番上からそのまま横ざまに身を投げた。