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何回もおなじこと喋る

権威主義と『ナワリヌイ』と『ラスト・ツァーリ ロマノフ家の終焉』

映画を見てきた。

ロシアの反体制派政治活動家アレクセイ・ナワリヌイの毒殺疑惑とプーチン大統領権威主義政治の関連を示唆するドキュメンタリー映画だった。

ナワリヌイのチラシ

映画としてとても面白かった。

わたしはロシアの政治に疎くてついていけるのか不安だったけれど大丈夫だった。問題の事件が起きる前からのナワリヌイ氏の政治活動とプーチン大統領を痛烈に批判するyoutube動画の映像などでどのような人物なのかが語られ、その後にシベリアからモスクワへ戻る飛行機の中で突然悶え緊急搬送されるナワリヌイ氏の実際の映像が流れる。その後はベルリンで治療を受けた彼と少数のチームと協力者が「誰は毒を盛られたのか、だとしたら誰が手を下し、それは誰の指示だったのか」を解き明かしていく。半分以上がその時その場で撮られたであろうiphoneや小型カメラでの映像なので今ここでそれが起きているのだというとてもスリリングな映画だった。

ドキュメンタリー映画も映画である以上は視点がありフレームでの切り取りと編集があるわけなのでここで語られる文脈のみを事実として飲み込み繰り返すことはできないけれど、それでもナワリヌイ氏が緊急搬送された際のワイドショーのような番組の一部で「密造酒を飲んでいたとかいう噂もある、ああいう輩はコカインをやっているんだろう、どうせ同性と乱行したりしてるんだ不健康なんだ」などと発言しているコメンテーターがいて、その政治的に自分と相反する死にかけの人物をフェイクやホモフォビアまで混じえて貶めることの許されるメディアの状況は何重にもこわいなと思った。

この毒殺未遂事件が政府による排除である証拠となりうる電話インタビューのシーンもそのまま使われていたのだけれど、あまりのことに、嘘であってほしいと、2000年代の世界でそんな愚かしいことが起きるはずがないと、ある種の陰謀論や憶測を出ない結末であってほしいと願っていたのでとても衝撃的だった。現代の権威主義に対抗する政治活動家は同時に探偵でもありジャーナリストでもある必要があるようだ。

この映画の中で扱いとしてはごく小さいけれどナワリヌイ氏がナショナリストのパレードに参加したりする(そこにはネオナチも参加していた)ことに対する追及のシーンもある。そこで「通常の社会では批判されるべきことだろうが、このような政治的状況下プーチン政権を倒すという目的のためには自分の政治的主義と相容れない相手にも訴える必要がある」ようなことを言っていて(とてもうろ覚えなので実際の映画を見て確認してほしい)最近ずっと政治的左派、リベラリズムの分断と弱体化について考えていたので賢いしとても政治家的なムーブだな気に入らないけどその状況下では必要だろうなと思った。

こういったドキュメンタリーを見る時、ついひとつひとつ日本(自分が暮らし住民票と国籍のある国)の状況の似ている部分を抽出してしまうし人間はそのようにして新しい問題を理解しやすく変換していくのだから悪いことではないのだけれど、それでもできるだけロシアの歴史的な文脈で(知識は乏しいながら)見るように努めた。Twitterでかつてフォローしていたロシア在住のなにかの研究者の方がロシアという国の家族意識のようなものについて語っていたけれど、この映画を通して感じる体制側(プーチン大統領側というだけではなくナワリヌイ氏チームが打破しようとしている保守的な壁)は巨大な家父長制であり、その家父長制が許してやっている範囲では大丈夫だがそれを超えた場合は厳しい罰が与えられる、といった印象を受けた。

そして日本と比べないようにと考えつつも、故安倍元首相の街頭演説で野次をとばし警察から排除されたという札幌の件を、ナワリヌイがドイツからモスクワへ帰国するのを待つ支持者たちを排除しようとする警察官の姿に重ねるなどしてしまった。

ロシアに帰国したナワリヌイ氏は空港でそのまま逮捕され、なんだかよくわからない罪で起訴され現在も服役中のようだ。(なんだかよくわからないというのは横領がどうのとBBCニュースなどに出ているのだけれど真偽がいまいちはっきりしない)

 

ところで冒頭でわたしは「ロシアの政治に疎い」と言ったが本当になにも知らなくて、ロシア帝国ソビエト連邦とロシア共和国とロシア連邦の違いについても成り立ちについてもなにも知らない。なので『ナワリヌイ』を見に行こうと思った日からNetflixで『ラスト・ツァーリ ロマノフ家の終焉』というロシア帝国最後の皇帝とその虐殺までを描いた再現ドラマと研究者インタビューで構成されているドキュメンタリー番組を数話ずつ見た。

全編英語なので(ロシア語ではないので)西欧諸国視点だろうし歴史的な事実を興味深く辿るみたいな感じだろうなと思ってたけど、社会の近代化と政治の民主化の動き、それについて行けず中世のような政治的判断を下し続けてしまう権威主義的な皇帝周辺、そしてかの悪名高き怪僧ラスプーチンなどなどなんというか盛り沢山で悲痛な話のはずなのに失礼ながら面白かった。

近代政治の授業で、王制が滅ぼされずにいることができた国というのは一般民衆へ少しずつ譲歩をしていった国で、民衆が強い組織化を果たして王制が無惨に倒されたのはかたくなに権力を固持しようとして普通選挙や議会民主制をゆるさなかった国であると習った(とても大雑把にわたしの理解の範囲での説明なので各自ちゃんと本を読むこと)のだけれど、このロシア帝国の崩壊と革命に伴う政治的混乱、暫定政権からレーニンによるソビエト連邦の樹立あたりはまさにあまりに後手後手な上に日露戦争や独露戦争を楽観視しすぎた皇帝政権へのしっぺ返しのように感じられた。

 

これだけロシアに関する映像作品を見て、現在のウクライナへのロシアの侵攻に思いを馳せないことはできない。テレビもラジオもない生活なのでなにかニュースに触れようとちょうど毎朝BBCやCNNのポッドキャストを聞くことを自分に課していた期間にウクライナへの軍事侵攻が始まったので、毎朝まさかね、まさかね、が高まっていって嘘でしょになったリアルタイムな感覚を思い出してしまう。あの時にも「こんなことが起きるのか」と胸に空洞が空いて信頼できるものなど無いかのような虚さを感じた。ちょうど、『ナワリヌイ』で毒物が使われた事実が関係者への電話で判明したシーンで感じたのと同じように。

この10年ほどを振り返っても日本でも少しずつ地道にその「まさかね」が重なっていて、怖さよりもずっともっと麻痺した虚さを感じてしまう。わたしやわたしたちが、自由や人権を、少なくとも人権というアイデアを訴える言論の自由を保持し続けるために必要なのはこの虚さとの戦いなのかもしれない。