toripiyotan

何回もおなじこと喋る

実験[ショートストーリー]

精神疾患についての描写があります。

 

 

 君は不幸だと思う。若い心臓と健やかな手足と聡明な瞳を持っているのに君の背には泥水を吸った厚い毛布のような憂鬱が重く乗っている。よりよい地面を求めて根を出す多肉植物のように憂鬱は君の背にがっしりしがみついているからちょっとしたことでは滑り落ちたりしない。

 君はそれでも立ち上がる。それが剥がれ落ちるようにと懸命に走る。髪を煽り立てるような豪速で車を走らせる。一縷の希望に縋って駆け上るがその重さに引き戻される。タールのようなベトついた暗い憂鬱はさらに重さを増している。

 君は興奮を求める。血のたぎりや情熱で背中の客を焼こうとする。君は活動的になる。夜を徹して踊る。何十時間も芸術作品の制作に没頭する。ひとときでも振り払えるならと君は酒を飲む。やがてそれは度を越していく。胃を焼くほど強い酒の不味さを受け入れ始める。それでもじっとりとした毛布は戻って来る。ほんの少し背から離れたと思うとどっしり包み込む。君は他の人間を求める。皮膚の擦れ合う感覚は脳を高揚させる。ごく短いオーガズムで全てがリセットされる感覚を味わう。ようやく終わりかと安心する。けれど肩を撫でられている間にまた戻って来る。相手は引き留めるが君は意味を感じられないから立ち去る。やがて理解する。他人の肌にも腕にも一般に言うほどの効果はない。

 君は重い毛布を引き摺りながら深夜に家に辿り着く。君は眠りを恐れるようになる。朝が来るのを見張って昼に睡眠をとる。君は少しのじっとりとした休息と背中の重さを引き剥がす長い努力の間を何往復もする。どれだけ取り組んだところでまるでばね仕掛けのように舞い戻る。重く押しつぶすような圧力を背に受けながらそれをどうやって脱ぎ捨てればいいのか方法を探す。

 やがて君は少しずつ繰り返す力を失う。ひどく疲れもう一度早く走ったり興奮を作り出したり他者を得ることが困難になる。君は取り組みをやめたくなる。

 君は重力に負けて橋から大きな川へ向けて落ちていく。川面に打ち付けられたところで意識を失う。君はようやく苦しみから解放されたかと思う。しかし目が覚めるとベッドに寝かされ点滴を打たれている。看護師の服装をした人間に世話を焼かれる。さまざまなテストを受ける。特に死にたいと思うかと何度も質問を受ける。

 君は病院のベッドに留め置かれる。朝と晩に四種類ずつの薬を飲まされる。君は背中の重い湿った毛布の存在がなくなっていることに気づく。それは君の望んでいた解放ではなく、視力が弱くなって見えなくなっただけのような、初めからそんなものはなく妄想であったといわれているような不気味な無感覚さを伴っている。君はあまりのあっけなさに戸惑う。これをどう捉えたらいいのか分からない。そしてどうしたらいいのかも分からない。

 君は医師から病院から出ることを許可され手には朝晩四種類ずつの薬がどっさり持たされている。けれどもはや君には取り組むべきものは何も残されていない。君はそのまま公園のゴミ箱に薬袋を落としていく。

 

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「博士、この例も失敗のようですね」

小さな研究室で小さな画面を見つめていたメガネをかけた助手が、資料をめくるメガネをかけた博士に向かって言った。

「そうそう大発見などあるものではないよ。私たちは実験をしてより多くのデータを集めることが仕事だ」

メガネをかけた博士は資料を書類の塔の上にどさりと重ねて言った。ノートパソコンを開いて報告書の作成に着手しながら、まだ被験者を映した画面を見ているメガネをかけた助手にまた声をかけた。

「かまわないさ、彼らはこのために培養したんだから。治療法のためならいくら使っても」

メガネをかけた助手はうなずいて博士の向かい側のデスクにつき、まったく同じ顔貌をした五十二例目のデータを呼び出した。