toripiyotan

何回もおなじこと喋る

渡る【ショートストーリー】

 テンはくすんだ水草色の男の着物を身につけた。それは軽く、歩きやすく、自由だった。鮮やかな首飾りも淡い桃色に透ける腰巻も、およそ娘と表現するものを全て脱ぎ捨てた。小さな包みを文机の上から取り上げるとそっと戸を開け足音を忍ばせ庭を抜けた。約束通り、川の渡し場には小さな火を持ったシラヒが待っていた。

「本当に行くのか」

テンよりふたつ下のシラヒは心配そうに言った。テンは黙って頷くと粗末な小舟に乗り込んだ。シラヒはしぶしぶ向こう岸に向けて櫂を漕ぎ始めた。

「なあ、なにも出て行くことないんだ。おれもうすぐ顔に刺青を入れてもらえる。そしたら郷の男になる。そしたらテンはおれと結婚すればいい。そしたら少しは守ってやれる」

舟を進めながら何度も言い合った話をもう一度シラヒが懇願するように持ち出した。シラヒとテンは生まれた時から友達だった。離れるのが不安なのはテンも同じだった。

「あんたは本当に頭の足りない大馬鹿野郎だよ、シラヒ」

テンは優しく罵った。本当の喧嘩ではなく気心の知れた者同士のじゃれあいのようなものだ。けれど言葉は真実でもあった。

「おれにお前みたいな学がないのは仕方ないだろ」

「それなら代わりに女になるかい?だけどそうすると、あんたは一生母の物だよ」

シラヒは黙って舟を進めた。小さな灯りを戴いた小舟が月も星も映らない真っ黒な川面を裂いて進んでいく。ようやく川の半ばまで進んだところでシラヒが声を上げた。

「まずい、もう見つかった」

テンも振り返った。郷の渡し場にかがり火を掲げた人影が小さく見えた。

「テン、おれは郷に戻らにゃならん。このまま飛び込め、泳いで渡れ」

慌てた声に、テンの胸にも焦りが広がった。向こう岸まではまだだいぶ遠い。これほどの距離を泳いだことはなかった。それでも今ここで捕まる訳にはいかず、テンは頷いた。

「道は避けろよ」

「わかっている」

さようならも言わずにテンは真っ暗な川に飛び込み、シラヒは舳を翻し元来た船着場へ引き返した。

 川の半ばは想像以上に深く冷たく、そして流れが早かった。テンがいくら懸命に水を掻いても目の前の岸は近づいてこない。つま先の下にはただ水しかなく、背伸びをしても川底の砂には届かなかった。顎を上げていようとするが幾度も押し流されて鼻や口から水が流れ込んだ。沈めば耳の穴に不快な水圧がかかった。テンは無我夢中で泳いだ。ほとんど溺れそうになりながらようやく河原の砂利に身を投げ出したときには全身びしょ濡れで息を切らしていた。わずかな持ち物も失っていた。けれど何か決定的なものを落としたような気がして体をあちこち触ってみた。怪我はなかった。右手には唯一、小刀を握りしめていた。しばらくして気がついた。着けているのも忘れるほど生まれてこのかた外したことのなかった腕輪を失くしていた。家の娘の証となる腕輪だった。

 

 テンは河原から木陰に入り、震えながら明るくなるのを待った。ひとりぼっちになるのは初めてだった。持ち物もなく、身一つで、そしておそらく追われていた。逃げたいという気持ちでいっぱいだった時には感じなかった恐ろしさがのしかかってきた。どうしたらいいのか途方に暮れていた。縮こまっていたテンに、体がどうするべきか指示を与えた。空腹が鳴いた。テンは半乾きになった髪を結い直し、小刀を腰の後ろに刺して森の中へ入った。摘める実を摘み口に入れると酸味と甘さで気持ちが緩んだ。

「なにか食べ、見つからないように生きていればいい」

テンはひとり呟いた。赤いヤマモモを食べているとそれはひどく簡単なことのように思えた。川で流されたおかげで道からはずいぶん外れていた。安全に隠れられる場所を探すため更に森の奥へ進むことにした。

 

 丸一日森の中を歩き回り、ようやく雨を凌げそうな乾いた岩場を見つけた。獣のにおいがしないか確かめながら、おそるおそる中に入った。夕闇が迫っていた。ひとまず一晩を過ごせそうだと横になると、二日寝ていない疲労がテンを深い眠りに引き摺り込んだ。夢のない泥沼のようにねっとりと重い睡眠は、夜明けよりも早くに甲高い声で破られた。目を開けると、なにか大きなものがテンの潜り込んでいる岩場の前を怒り狂ってぐるぐる回っている。それはワシだった。それも大きなワシだった。両翼を広げ、黄色い嘴を開いてガガガガと威嚇している。その大きさと声音はテンを怯えさせた。その鋭い爪と嘴をなんとか回避できないかとじりじりと身を縮めたまま這って逃げ出た。ワシは執拗に鳴き続け容赦する気配はない。テンは震えながら小刀を胸の前で握りしめた。その時、ワシの威嚇に混ざって同じくらいざらついた怒声が聞こえた。テンがそちらに目を向けると、テンの半分ほどの背丈しかなさそうな老婆が自分の体ほどもある棒をむちゃくちゃに振り回しながらワシに向かってきていた。

「この根性曲がりの性悪の意地悪のガラガラ声の大馬鹿ワシ!」

老婆は猛烈な勢いでワシを罵りながら木の棒をバシンバシンと地面に叩きつけて迫っていった。ワシは一瞬あっけに取られた様子を見せるとくるりと身を翻して老婆の届かない高さまですいっと飛んで逃げた。テンは朝日が出る前の薄暗い森の中で腰をぬかしたまま小鬼のような老婆を見つめていた。

「今日は誰がいじめられとった」

老婆は中空にむけて尋ねた。その目は白濁していた。テンはどうにか喉を開いて声を出した。

「わたしです」

「ほお、婆は人の子に会うのは久しぶりだ。こっちに来てみろ」

テンはよろよろと立ち上がって老婆のそばに寄り、その手をとった。老婆はあまりに小さいので背を屈める必要があった。

「助けていただきありがとうございます」

「あいつは根性悪のいやなワシなんだ。食うわけでもないのにああしていじめてまわるのさ」

老婆はテンの手をよく確かめるように握り、見えない目でじっと顔を覗き込んだ。「お前、婆の薪拾いをちいと手伝ってくれるなら朝ごはんを食べさせてやろうか」

テンは頷いた。それから気づいて口を開いた。

「はい。お手伝いします」

 

 老婆の住処は骨組みのしっかりとしたごく小さな小屋だった。質素だが居心地がよく、雑多で埃っぽかった。他に人の気配はなく不揃いな食器からも老婆がひとりで暮らしていることは明らかだった。テンが帰り道に集めた薪はかまどに焚べられその上では湯が沸かされた。熱い茶と素朴な種無しのうすいパンはテンにとって涙がでるほど美味かった。

「童、お前はなにができる?」

老婆が茶を啜りながら尋ねた。テンは困惑した。

「ウサギ狩りはできるか?薪割りは?魚は獲れるか?粉挽きのやり方は?」

テンは顔を赤くした。郷にいた頃、友人たちはそれらを家の手伝いで覚えていった。テンは仲間に入れず泣いたものだった。

「わたしは薬になる草が少しわかります」

テンが屈辱と共に小さな声で答えると老婆はほうほうと声を上げた。

「そうしたら文字もわかるかね、婆はもう目がダメだが古い本がまだあるよ。ほらたぶんあのへんだ」

老婆はあてずっぽうに指差した。たしかにその指の指し示す窓の下に蜘蛛の巣をまとった分厚い本が数冊ならんでいた。

「お前ができることをするなら、ここで好きにしていい。だけどしなくてもいい。行くのも居るのも勝手だ。童も婆も」

老婆の言い方はテンには奇妙に聞こえた。どう答えるべきか迷う言い方だった。逡巡したのち「はい」とだけ答えた。

 

 老婆は盲目であるもののテンの手伝いをほとんど必要としなかった。小屋の裏手の小川に仕掛けた罠を引き上げて魚を獲ったり畑の世話をしたりせっせと動き回る老婆のあとをついて回ってテンは仕事を覚えていった。暮らすことに関してテンは知らないことが多すぎた。料理の方法もわからず、鶏の締め方も知らなかった。それはテンが郷を離れて生きていくために必要となる能力なのに、自らの無知に気づいてもいなかった。テンと母の食事は必要なとき常に用意されていた。その裏側をテンが覗くことを母は嫌った。どこからくるかなど知る必要はないと言った。

「自分の食うものは自分でこしらえるんだ」

老婆はテンに言った。

「ワシもネズミもそうやってる」

 テンは老婆の蔵書を引っ張り出して読んだ。ひとつは生活の知恵が書かれていた。食べられる植物の育て方、小魚の罠の効果的な作り方、怪我の応急処置の仕方。もうひとつは物語だった。勇ましい神や王たちの古い戦いの言い伝え。それよりずっと小さな本を開くと歪んだ手書き文字が並んでいた。老婆の古い日記のようだった。テンはそれは読まずに窓の下に戻した。テンは本に書かれた知識と老婆の手さばきから暮らしに必要な知恵を少しずつ付けていった。

 

「これは食えるよ」

老婆が摘んだ草の匂いを嗅いでテンに渡した。テンも同じものを摘み取って背負ったカゴに入れた。食える、食えない、苦い、毒、と言いながら老婆はテンに野草を渡したり放り捨てたりして森の中をどんどん歩いていく。いくつかはテンも知っている植物だった。屋敷の裏手で育てていたのと同じ薬草もあった。しかしそのことについては何も言わなかった。知識は呪われた記憶のように感じられた。川を渡る前のことは全て無かったことにしたかった。新しい経験と新しい知識だけで暮らしたかった。

「童にも婆にもできないことがある」

老婆は集めた野草を束にしてぐるぐると紐でくくり天井の梁から逆さに吊り下げた。

「どんなことでしょう」

テンが尋ねると老婆は台所の戸棚を開いて言った。

「粉挽きだ」

穀物の粉末を貯蔵した大きな缶はほとんど空になっていた。

「街に行ってなにかを売って、それで粉を買わなきゃならん。売れるものをかき集めるんだ」

老婆は、これみたいに、と野草を指して言った。

「これで、どのくらいの粉が買えるんですか」

テンが尋ねると老婆は椅子に大義そうに腰掛けてため息をついた。

「これっぽっちも買えないくらいだね。ウサギが獲れれば皮と肉を別にして両腕たっぷりの小麦と換えられる。キジも良い値になる。だけど婆はもう年だし、昔みたいに狩りが上手くないからね。こういうやつをどうにか集めてなんとか芋のない季節を越えられるだけ恵んでもらってるのさ」

老婆はテーブルの上の冷えた茶を湯呑みに注いで啜った。テンは自分の湯呑みにも茶を注いだ。朝から置きっぱなしになっていたので出涸らしで渋く冷たかった。

「婆、わたしは薬になる草を集められるかも知れない。ここには煎り場も臼もないけれど、材料だけ集めたら小麦を買うだけにならないかな」

老婆はテンに白い瞳をじっと見据えて言った。

「そりゃあなるさ。そうしたかったらするといい。薬屋に持っていって金に換えてもらったがいいさ、値がわかる奴にね。もしそうしたいなら」

テンは下を向いて手をもじもじさせながら答えた。

「わたし……、そうしたくはない。わたしにそれを教えたひと…たちは、わたしを自分の物にするためにわたしに教えた。もしそれを使うなら、わたしはそのひとたちからずっと自由になれない気がする」

 爪の間には土が入り込んで黒ずんでいた。老婆といるとひっきりなしに土を触ることになるので郷にいた頃のような綺麗な指先になることがない。けれどテンはそのほうがずっと良い気がした。

 テンが物思いに沈んでいると、老婆が立ち上がって小さなテーブル越しに身を乗り出し手探りでテンの肩を掴んだ。それから顔を探り当てて両手で頬を挟むと見えない目でテンの黒い目を覗き込んだ。

「よく聞くんだ童、お前が嫌がってもあんたが持ってしまってるものは否定できないよ。わたしもお前も幸運だ、字がわかるからね。それが望んで得たものじゃなくても幸運なんだ。お前が捨てたがっているものも喉から手が出るほど欲しがってる他のやつがいる。そいつらは仕方ないから自分の手や足を売るしかないんだよ。お前に知識を与えたのが殺したいほど憎んでるやつだったとしても、知っていることがお前を支配できるなんてことはない。お前がお前の知っていることを使うんだ。言ってる意味がわかるかい」

老婆の両腕の力は小柄な老人とは思えないほど強かった。ごつごつした手のひらは大きく、狩りが上手いという言葉がテンの中で反響した。

「わかった」

テンが頷くと老婆はぱっと手を離して椅子に座り直した。

「だけどどうするかはお前の自由だ。行くのも居るのも自由、童も婆も」

 

 早朝、テーブルの下の寝床から起き出したテンは籠と小刀を持って老婆を起こさないようそっと小屋を出た。専用の菜園から摘み取るのと、森の中で似た植物の中から目当ての薬草を見分けて摘み取るのとでは全く勝手が違った。しかし森の利点は樹木性の薬が手に入ることだ。テンは蝶の後を追い見つけた木の葉を揉んで確かめると、幹に小刀を立てて剥ぎ取った。樹皮の内側は黄金色をしていた。そうして草や樹皮や根を集めて回ると昼前には籠がいっぱいになった。

 小屋に戻ると老婆が魚を焼いていた。

「ずいぶん変わった匂いがするようだね」

火にかけた二尾の魚を返しながら老婆が言った。にやりと皺の寄った口を歪めて笑っていた。

「薬の材料を採ってきた。乾かして街に持っていくよ」

テンが照れくさい心地で言った。

「そんなら昨日の野草は食っちまおう」

テンと老婆は昼に焼いた魚にかぶりつくと、夜には残った骨で出汁をとってちぎった野草と汁にした。

 

 街までは丸一日かかる、と老婆は言った。テンはぎりぎりまで通りに出たくなかったので繰り返し森の中の目印を聞いた。その道行きの途中までは何度も歩き回ったことがあるが、足を踏み入れたことのない場所は不安だった。しかし一番恐ろしいのは森よりも街だった。テンはそれまで郷から外に出たことがなかった。知っている人間に鉢合わせることも知らない人間とやりとりすることも不安だった。

「婆は行きたくない。婆と行くと遅くなる、ひとりで行け。嫌なら行かんでもいい」

老婆は頑なに同行を断った。結局、テンが老婆にいて欲しいのは心細さだけの問題だった。売りたいものについての知識はテンの方がはるかに多い。ぐずぐずしていても粉は増えないのだ。テンは意を決して出かけて行った。

 

 街に入る前に、テンは頭を布ですっぽりと覆って顔を隠した。街は真っ直ぐな通りの両側に軒が連なり、そこにおよそあらゆるものが並べられやりとりされていた。往来する人の多さに圧倒されながら、テンは歩き回って薬屋を探した。それは食べ物を売り買いする通りよりも奥まった人通りの穏やかな一角にあり、大きな格子状の窓で店の中を覗けるようになっていた。テンは中に他の客がいなくなるまで待って扉を開けた。

「薬の材料を買ってもらえますか」

店主と思われる痩せた中年の男性は頷くとテンを手招きして暖簾のむこうの作業場に通し、大きな机の上に籠の中を広げるよう言った。

「なんだかわからんものも混ざっとるな」

「煎じて飲むと腹に効きます」

店主は怪訝そうな顔をした。どちらにしろ自分が使わない材料はいらないと言った。

「銀二枚が精一杯だな」

テンは頷いた。相場を知らないのでそれでどのくらいの小麦が買えるのか分からなかった。しかし探るような店主の目から早く逃げたかったので言われた値で籠を空にした。

「お前は調合もできるのか」

店主が尋ねた。

「道具があればできます」

テンは平坦な声で答えた。

「この街には川向こうの郷の薬売りも来る。顔に刺青のある男たちだ。しばらく前に仕込んでいる娘が逃げたと言っていた、郷の屋敷の後継だとかなんとか」

テンは受け取った銀貨をぎゅっと握りしめた。すぐに走れるように足が緊張していた。

「うちとしては商売敵は少ないほうがいい」

テンが空になった籠を背負って突き返された薬草と銀貨を持ち店を出ると、店主がその背中になにかあればまた持ってくるように言った。

 

 街には色とりどりの反物があった。衣服も耳飾りも靴も珍しい生き物も果物も豆も酒もあった。けれどテンはそれらをぶらぶら見て回る余裕などなかった。布を深くかぶり俯いて急いで通り過ぎた。薬屋でもらった金は籠にずっしりとくるくらいの量の粉に変わった。鷹揚で明るい粉屋にも口を利かずそそくさと立ち去った。テンは早く森に戻りたかった。ひとりになりたかった。

 街の中と外を区切る垣根のあたりで影が動いた。テンはどきりとして飛び退った。心臓がどきどきと打っていた。影がまた動き、そして憐れっぽく鳴いた。それには目があった。耳もあった。犬だった。少し近づくと真っ黒な犬が垣根に巻き付いた旺盛な勢いの野葡萄の蔓に絡まって抜け出せなくなっているのが見えた。犬は目が合うと助けを求めるようにもっと激しく鼻鳴きをし尻尾を振った。テンは急な緊張の落差に安堵のため息をついて近づくと、蔦を小刀で切って野葡萄に縛り上げられた犬を救出した。犬は蔦が緩むとぴょんぴょん飛んで垣根を離れ、全身をブルブルと震わせて喜んだ。

「もう危ないところで遊ぶな」

そう言ってテンが通りに出ると、犬は当然のように飛び跳ねながらついてきた。道のあちら側やそちら側でにおいを嗅いでは走ってテンに追いついて見上げてくる。

「わたしにはお前を養う余裕はないんだよ」

テンは犬に言った。犬は小さな狼のような姿だった。足がしっかりと大きく、まだ若い。冬になれば毛が厚くなりそうで、耳はピンと立っており目の色は薄かった。はしゃいでぐるぐるとまとわりついて歩いていた犬が、テンが道を外れて森に入っていくと付いてこなくなった。振り返ると道との境界でどうしようか迷うように立っている。テンが自分を見ているのに気づくとまたクンクンと鼻で鳴いた。おそらく彼のこれまで訪れたことのある境がそこまでで、これより先には踏み入ったことがないのだろう、とテンは思った。それならそのまま街に戻ってまた仲間と暮らせば良い。テンは背を向け森の中を進んだ。背中が遠くなるにつれ犬の鳴き声は大きくなった。テンは犬の方に少し戻って声をかけた。

「来るなら早くおいで。うちは遠いんだよ」

犬はおずおずと草を踏み、急ぎ足でテンに追いついた。

 

 森の中で一夜を明かし、翌朝テンと犬は老婆の家に戻った。

「婆、戻りました」

早くに起き出して働く老婆にしては遅くまで寝床にいるなと訝しみ、籠を置いたテンは布団に丸まった老婆を揺り動かした。老婆は目を開けたが息が細かった。

「童、よかった間に合った。婆はもう行くから頼みがある」

テンは狼狽えた。老婆にはいつもの逞しさがなく、地面に落ちた皺くちゃの小さな蝙蝠のように見えた。

「婆、粉が買えましたよ。行くってどこに行くの。具合が悪いのか、なにか欲しいものないか」

老婆は弱く首を振った。か細い声で囁くので、テンは老婆の口に耳を寄せた。

「婆が行ったらあの根性曲がりのオオワシが婆の体をつっつき回さないようにしっかり埋めてくれ。あいつには我慢ならん」

 テンは命の細くなっていく老婆の寝床の横にじっと座っていた。犬はテンの脚に頭を乗せて眠った。老婆は昼過ぎには呼吸をやめた。心臓は音を止め皺だらけの体はてろんとした布人形のようになった。

 老婆の最後の罠にはたくさんの魚がかかっていた。テンはそれを犬と分けあって食べた。食事の後に老婆の墓を作った。テンは初めて老婆と会った岩場のそばに深い穴を掘った。そこは他より高くなっていて見晴らしが良かった。小さな体のためとはいえ一人で墓穴を掘るのは大仕事だった。木の根を避け石を除き汗を流しながら体を動かしていると気が紛れた。深い穴の底に敷布で包んだかつて老婆だった体を横たえ土をかぶせると大きな石をいくつも運んできて並べた。テンは犬と家に戻るとこれまでのようにテーブルの下ではなく老婆の寝床に眠った。

 

 犬はホノと名付けられた。ホノは気ままに森の中をぶらついた。腹が減ると家に戻った。時には自分でネズミや鳥やトカゲを狩った。テンが呼ぶと一緒について回った。夜はテーブルの下で眠った。最初にその男たちに気付いたのもホノだった。テンと木の実狩りをしているとふいにホノが顔を上げた。耳をくるっと回しながら黒い鼻をしきりに細かく動かしている。テンはホノが進む方へ足音を忍ばせてそっと進んだ。高く伸びた下草と木の影に隠れて見ていると顔に刺青のある男がふたり、ざくざくと通り過ぎて行った。テンはこれまで森のこちら側で郷の男たちを見たことはなかったが、見つかるのも時間の問題かもしれないと思った。

 

 日が落ちてから渡し場へ向かった。テンは郷を出た日以来初めて河原に戻った。小さな火を振ると、向こう岸からも火が振られ、小さな舟が向かってきた。暗い水面に大きな月が映り、それを割るように舟が近づいてくる。

「まだお前が渡し役をさせられててよかったよ」

テンは懐かしい顔にほっとした。顔に刺青を入れているがシラヒは別れた時から変わっていなかった。

「お前、テンか?」

シラヒは信じられないと言いたげな声で尋ねた。灯りをテンの顔に近づけてまじまじと見る。

「ぜんぜん別人になったみてぇだ。なんで戻ってきた?」

テンは答えず小舟に乗り込んだ。ホノも当たり前のように乗り込み、それだけで舟はいっぱいになった。シラヒは舟を返して郷に向かって漕ぎ出した。

「お前が出て行ったときは大騒ぎだったぞ。まだ郷の男が何人か時々探しに行かされてる」

シラヒが暗い水に櫂を差し入れながら行った。ホノはシラヒの草履のにおいをしきりに嗅いでいる。テンは背を向けたままじっと郷の方を見つめていた。

「母に会いに行く」

「じゃあ裏庭から入れ。誰にも会わんで済む」

生まれ育った岸が近付いてくると胸が締まった。見慣れた景色への苦々しさは薄れていたが哀しさがズンと胃を重くした。肩の上にホノが温かい息をハッハッと吹きかけた。

「お前はシラヒとここで待ってろ」

テンはホノの耳の下を撫でて屋敷の敷地へ向かった。

 

 母の部屋は豪奢だ。母自身もまた着飾っている。その時も透けるほど薄く織った玉虫色に光る上掛けを着、金のシャラシャラ鳴る重い耳飾りを付け、蝋燭の灯りを頼りに黒檀の文机に向かっていた。テンが戸を開けて入ると、母は目だけチラリと上げて口を開いた。

「なんて汚い格好をしてる。屋敷の女として情けなくはないのかい?顔を洗って着替えて来なさい。どれだけ探させたと思ってるんだ」

母は書き物を続けながら言った。

「わたしは戻ったのではありません、もう探さないでほしいと言いに来ました」

テンが答えると母はようやく手を止めて顔をあげた。

「もう一度言ってみろ」

墨を引いた母の目は相変わらず大きく鋭かった。テンは臓腑が縮み上がるのを感じた。馴染みの感覚だった。

「わたしは屋敷に戻りません。出て行きます」

母は立ち上がるとドシドシと大きな足音を鳴らしてテンに近寄り、胸ぐらを掴んで顔を寄せた。

「なんて娘だろうね、母に逆らうなんて!あんたはあたしの唯一の後継ぎだよ。出ていくなんて許すはずないだろう。あんたは郷から出られないよ。あたしの仕事をこの頭に叩き込むんだ。それから郷で娘を産んで、今度はあんたがその子の頭にあたしの仕事を叩き込むんだ。あんたはそのためにいるんだよ」

テンは怯えが表に出ないように歯を食いしばった。掴まれた襟首を振り払おうと母の手首を掴むと想像よりも細く筋張っていた。

「わたしは行くのも居るのも自由です」

母はテンの呟きをせせら笑った。

「自由なんてあるもんか。あたしが死ぬまであんたはあたしの物だよ。あたしが産んだんだ。あんたの手も足も名前も頭の中だってあたしの物だよ。息子は郷の物、娘は母のものなんだから。わかったらそのバカみたいな服を着替えてこい」

 テンの襟首を離した母は文机に向かい再び書き物に戻った。テンは母をじっと見つめていた。それからゆっくり小刀を取り出すと小さな鞘を抜いた。

「本当は必要になった時に売ろうと思って残していました。でも母様にあげます」

テンは自分の髷を切り詰めた。短くざんばらに残った毛先が首に当たった。

「あなたの娘は死んだと思ってください」

母はテンをぎらぎらとした目で見つめていた。

「うちの薬は一家相伝だよ。あんたに仕込んだことも全部うちのモンだ」

「わたしに与えたのはあなただけど、それはわたしを支配しない。どう使うかはわたしの自由だ」

テンは立ち上がると戸を開けて母に背を向けた。

「あんたをここまで育てたのに、あんたはあたしを見捨てて行くのか。あたしはこんなにあんたを愛してやったのに」

テンは答えなかった。さようならも言わずに戸を閉めて廊下から庭に降りた。

 

 川の渡し場には小さな火を持ったシラヒと耳をそば立てたホノが待っていた。ホノはテンの姿が見えると尾を降りトコトコと近寄って出迎えた。テンはホノの頭を撫でてやり、黒い水面に浮かぶ小舟に一緒に乗り込んだ。

「帰るぞ」

月明かりで照らされたテンをまじまじと見ながらシラヒは櫂を漕いだ。川は静かで穏やかだった。

「お前はまた格好ようなったなぁ。今度遊びに行くけ、どういうことか聞かせぇ」

シラヒの言い方にテンは照れくさく頬をゆるめた。郷に背を向け、向こう岸に着くまで膝にのせたホノの頭をゆっくり撫でていた。