アブストラクト[ショートストーリー]
彼はいつも私に理解できないものを描いていた。キャンバスは黒く、あるいは赤く、あるいは灰色で、獣が噛み合っているか、あるいは人がまぐわい合っているか、締めあっているような、どうとも表現のしようがないものばかりだった。彼の絵はごくたまに高額で売れた。私にはどうして売れるのかちっとも分からなかった。それでも彼自身は優しく、ユーモアがあり、ティーネイジャーの頭に文学を叩き込むという私の仕事にも敬意を向けてくれていたので、一緒にいることは心地良かった。
「一体何を描いているの」と私は幾度となく尋ねた。そこに現れている彼の一部を理解できないことが歯痒かった。彼は戸惑い、どこかバツが悪そうに答えた。「何をというわけじゃないんだけど…」
何度見てもよく分からない。渦巻きのような、引き裂き傷のような、顔のような、内臓のようなその表現を、私はどうにか腑に落ちるように解釈しようと努めた。夜に帰宅してガレージのアトリエへ彼を夕食に誘いに行った時、日曜の早朝にベッドにいない彼を探しに行った時に、私は彼が向かうキャンバスを見た。絵の具は飛び散り、あるいは擦りつけられ、愛撫のように拭われていた。そこで展開されているものは私の参加を拒絶する舞踏会であり私は疎外感と羞恥を覚えた。私は踊り方が分からない田舎者の気分だった。私は分かるふりをするには言葉に忠誠を捧げすぎていたから、せめてもの自分の尊厳を保つ方法は立ち尽くし正直に分からないと言うことだけだった。彼は私に気付くといつでも私と日常の細々としたこと、食事や買い物といったことへと注意を向けてくれるけれど、描きかけのキャンバスは必ず彼が戻って当然だという顔で超然としていた。
「分からないことは良いことかもしれない」と彼は言った。「分からないからこそあなたを愛しているのかも」とも。私はむっとした。「それは自分よりも劣った存在に対する優越感ゆえの安心ではないか?」私が反論すると彼は両手を上げて降参した。「あなたに知性で勝てたことなんか一度も無いよ。そういうことじゃないんだ」彼は私と争おうとしなかった。シリアルのメーカーのようなほんの些細なことについても。「君が描くものが可愛くはないということは分かっているよ。君本人と違って」けれどあれまで含めての彼本人ではないのか、と迷いながらも私の言葉が正直に立っていられるのはそこまでだった。残りは混沌とした煙の中にあり最後まで掬い取ることができなかった。
ガレージの床で失血死している彼の亡骸は仕事から帰宅した私が見つけた。たまたま入った強盗が家の中のテレビや現金を持ち出したのち、たまたまガレージまで荒らしに向かい、たまたま彼と鉢合わせた。強盗は絵画の価値は分からなかったようで一点も失われてはいなかったものの、驚いた二人の人間がしばしば陥る不毛な状況、すなわち暴力によって彼の命は奪われた。葬儀に伴い彼の体は運び出された。命が失われると様々な手続きが要求される。それらの後に人々は去り、彼の存在を思う場所は家から墓地へと移った。私にはそれは理解しがたいことだった。
何週間もソファで横になり段ボールのような食事を噛み壁のシミを見つめて過ごした。体の中に巨大な空洞が空いていて底が見えない心地がした。あまりに痛くてむしろ麻痺しているようだった。過去も現在も考えられず、いま現在に標本のようにピン留めされていた。私は彼を探しにガレージへ向かった。いるはずだ。そうだろう?いつもいたのだから。しかし床に乾いた広い血の染みが残っているだけで、そこは主人を無くしたキャンバスと絵の具とがごちゃごちゃと溢れるほこりっぽい空間だった。私は血の染みの上に体を横たえた。彼が最後に描いていた絵が私を見下ろした。
それは全く新しい印象を与えた。私は制作途中のそれをこれまで何度も見ているし、その度にいつも通りの分からなさしか感じられなかった。けれど今、彼の血の上に寝転んでそれを見上げながら私はどうしようもない慕わしさを感じていた。それが彼によって描かれたものだからではなく、それ自体が私に語りかけていた。私の中へ、私の暗い空洞へ。それは蠢いていた。黒から赤へ、赤から灰へ、鋭く引き裂かれた女たちは獣の頭を食らい、蛇たちは絡まり合ってまぐわっていた。それらは私を揺さぶった。定義は溶けて物と人は曖昧になり境界は意味を無くしていた。私は満たされていた、そこには全てがあったから。私は寝そべったままキャンバスの表面に手を伸ばした。泥のように柔らかく、私の手のひらは埋まった。内側から手を引かれ、私は扉をくぐるようにその中へと引き込まれた。