海─a short story
樹々が葉をすっかり落とした晩秋、冬が始まる直前に貨物船が港へ滑り込むと、小さな街はその
ことでもちきりになった。交易品があちらこちらで手から手へと渡されるのはもちろんのことだが─これは大人たちだけのことではなく子供たち同士にもあてはまった。船に乗っている見習いの子供たちが異国からもたらす見慣れない品々を街の子供たちは小遣いや密かに宝物として隠していたまがい物のガラクタとどうにか交換させようと躍起になった─それだけではなく、誰もが彼らの話を聞きたがった。巡ってきた海の向こうの島々の話や、延々と続く海の上での暮らしのことを、時には大袈裟なホラ話だと言いながらも、ついつい引き込まれ熱心に耳を傾けた。
ヂージェの父親はその貨物船で古株の船員だった。ヂージェも見習いたちの中で一目置かれいた。にも関わらず、港に停泊したその瞬間からヂージェはやせっぽちのジェッセと親友になった。ふたりは外見も中身も正反対だった。ヂージェは暖かい島で生まれ船で育った。肌色は濃く潮風で洗われ、いつもむずむずと動き出しそうな両足を持っていた。一方ジェッセは北の冷たい港町しか知らず、それなのに街の子供たちに馴染むこともできず、やってきては行ってしまう船を眺めてはどこか遠い土地を想像して暮らしていた。ヂージェは父親に言い付けられ荷卸をしたり次の船出にむけての使い走りに駆け回ったりする合間を縫っては、ジェッセのうちの青果店に裏口からもぐりこんで腐りかけた果物を分け合って食べたり、小鼠のように市場を駆け回ったりした。またジェッセも品出しや店番が終わるとこっそり船に潜り込みヂージェと甲板で波に揺られながら読んだ本のことや季節ごとに入れ替わり訪れる森の鳥たちのことなど絶え間なく話し続けた。ヂージェの父親は仕事をさぼると言って腹を立てたが、ジェッセの両親は引っ込みがちで丘に親しい友達のいないジェッセが明るくなったので多少のことはと容認した。どのみち船はすぐに出るのだから、なにもわざわざ自分達が厳しいことを言わなくても物事はおのずと収まるだろうと、羽目を外しても見逃した。
「ヂージェ、やせっぽちなんか放って俺たちと出かけよう」
時折、あからさまにジェッセを無視してヂージェを自分の隣に引き寄せようとする者がいた。大人たちと同じように彼らにもヒエラルキーがあり、海に面していてもなかなか遠くからの船など訪れない小さな街の子供にとってヂージェは珍しい猫か輝くメダルのような存在だった。誰もが 知り合い仲良くなりたがった。そんな彼らに対してヂージェは笑顔のまま肩をすくめて良いとも嫌だとも言わずに通り過ぎた。ヂージェの真っ直ぐの黒髪が冷たい冬風に小気味良さそうに吹かれていた。ジェッセは自分の淡い色の髪を疎ましく思った。
「なぜ僕と友達になってくれたの?」
その一言はジェッセの喉にいつもぶら下がっていた。しかし口に出すにはあまりに卑屈すぎる響きがして憚られた。ジェッセは炒り豆の袋をまわしながら代わりに聞いた。
「なぜ僕らは僕らなんだと思う?」
ヂージェはジェッセが予想していたより長いこと真剣に考えていた。船首に座り遠くの空が紫色に暮れるのを見ながら、硬い豆を海に向かってペッと吐き出した。太ったカモメが二羽、うらめしげに見つめていた。
「宇宙がそう願ったから」
「宇宙?海じゃなくて」
ジェッセはヂージェならより身近で広大な海を喩えに出しそうなものなのにと訝しんだ。ヂージェは首を振った。
「海なんか大したことないさ。どの海より大きくて、どんな嵐の日でもいつもあるものじゃないとだめだ。宇宙か、そうじゃなかったら大陸にあるという『白い女王山』だな」
ヂージェは自分の結論に満足した様子で口笛を吹いた。
「宇宙と山は比べ物にならないよ。それがたとえどれだけ高く険しくても、山は山でしかない。浜辺の砂山を巨大にしたところで、毎晩星々を抱いて現れる深淵な宇宙と比べ物にはならないだろ?」
ジェッセは背後を振り返って自分が生まれる前から街を見下ろすようにそびえている頭に白く雪を被ったゆるやかな山を指し示した。ヂージェは驚いたような顔をした。港から山を見たことはあっても、近寄ったり、ましてや登ったことなどなかったのだ。
「じゃあ宇宙だ」
「うん」
「海じゃない」
「海じゃない。了解」
冷たい雪解け水が小川を流れ始めた頃、街では春祭りの市が立ち、港では貨物船が錨を上げていた。たっぷりの商取引と冬の間の異国話という退屈凌ぎに両手を上げていたことをすっかり忘れたように、大人たちはタイミングが悪すぎると文句を言った。
「しょせんはよそ者たちだな。身勝手なやつらだ」
ジェッセは祭の準備に奔走しながらよそ者になってみたいと願った。透明になって風にたなびいて、吹き飛んでいく風船になってみたい。しかしその夢想の泡は父親から飛んでくる指図に刺されて弾けて消えた。
どうにか店を抜け出して港に駆けつけた時には貨物船は最後の積荷を積み込みまさに出て行かんとするところだった。ヂージェは舷梯を駆け降りてくるとジェッセの首に齧り付いて抱きしめた。ふたりは長い間抱き合った。ようやく腕をほどいた時、ヂージェの目は涙で潤んでいた。
「行きたくない。行けばお前は僕のことを忘れる」
ジェッセは驚いた。誰もが友達になりたがって、誰からも好かれているのはヂージェの方だ。
「忘れないって誓う」
ジェッセは自分が何も持っていないことを悔やんだ。交換するものは言葉しかなかった。
「それに、追いかけるって誓う」
ジェッセの目に自分の心が透明になり重さを失い海風の上を軽々と飛んでいく様子が浮かんだ。
「どれだけ遠くなっても、どこまで行っても。運命を自由にできるくらい大人になったら。だって海なんか大したことない、だろ?」
ヂージェは袖で鼻を拭って頷いた。
「僕も必ず戻ってくる。海なんか大したことない」
貨物船が地平線の先に消えてから何度も大きな嵐が起き、寒波が訪れ、日照りが続き、歳月が流れた。ある日ジェッセは古物屋でなけなしの蓄えからぼろぼろの旅行鞄を買って、身の回りのものを放り込むと港に向かった。父親は呆れ、母親は泣いた。あれから一度もヂージェの消息は聞いていない。しかしジェッセには確信があった。血の中には約束の言葉が生きていた。
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打ち上げられたクジラ
二ヶ月も前に書いてブログにアップしていたのにこちらには上げ忘れていた。
。。。。。。
西風が強く吹き冷え込むだろうとラジオで言っていたので、私はシャツをもう一枚重ねて着た。 深い青のジーンズを履き、裾を長靴の中にしっかりと入れ込んだ。撥水加工のリュックにはレインコートと折りたたみバケツをふたつ詰め込んである。
近くの浜にクジラが座礁しました、と町役場からお知らせがきた。家からだと電車で20分、そこから歩いて15分はかかる。本当ならようやく得られた貴重な休日は家でのんびりと過ごしたい。家事だって溜まっているのだ。それでも私は、ちょっと遠い町外れまでクジラに会いに行こうとしていた。
大勢詰めかけていたら引き返そう、という声が頭の中で何度も反響した。改札を抜けるときにも、電車がホームに入ってきたときにも、がらがらに空いた車内を見回したときにも。私が行かなくていいのなら帰ろう。必要ないのにわざわざ首を突っ込むことはない。それよりもう少し小さな声がすぐそばでくっついてささやいていた。でももし反対に、誰もいなかったら?
無人駅で降りると、無造作に停められた軽トラを避けて浜辺に向かった。田舎道の歩道は人が一人通れる程度しか幅がなかったが、幸い誰ともすれ違うことはなかった。夏に大きく力強く茂り気温の下降と共に一気に茶色く萎びた雑草が命の名残をガードレールから突き出していた。進むにつれ一つ、二つと擦れた私のジャケットに、草の種がしがみついてきた。
小さな砂浜には巨大なクジラが横たわっていた。私の半分が恐れていた通り、人影はひとりも見当たらなかった。遠くで自転車に乗った人が通り過ぎざまちらりと目を向けたが、かわいそうにと同情したのか、あるいは見たものを振り払いたかったのか、小さく頭を振っただけでそのまま走り去ってしまった。関心を向ける人は、少なくともこの時この場には私だけだった。
私は空き缶や破れたプラスチックだらけの砂浜にリュックを下ろし、レインコートを出して着た。空はどんよりと灰色の分厚い雲に覆われていて、今にも雨を降らせるぞと脅してきているようだった。私はビニール製の折りたたみのバケツを広げ、波打ち際に向かった。水平線のあたりでは音のない雷が傍若無人に水色の鞭を振るっている。私は冷たい海水を汲むとクジラの横を歩いた。クジラの体はあまりに大きくそばに寄るのは緊張した。洗い息が吹き上がるたびドキリとする。私は二つのバケツの中身をクジラの脇腹あたりに空けた。バシャっと流れ落ちたそれは巨体に対してだと一粒の涙と大差なかった。それでも私は両手にバケツを持って波打ち際へと往復した。
クジラには尾ビレから頭に至るまで全身に傷があった。古いものから最近のものまで、生まれた時から刻まれてきたのであろう様々な、色や大きさの異なる傷が。中にはグロテスクに盛り上がったものもあった。ゴミが絡みつき赤い裂傷になっているものもあった。私は目を背けたかった。そこには生きてきた跡がまざまざと記されていた。
何時間も小さなバケツを運ぶうち、私の両手は持ち手で擦れて赤くなった。風が強くなりレインコートを煽ったが、雨は一向に降りそうになかった。ただ雷だけは段々と近づき、いつの間にか騒がしく音を立てて青白く光っていた。クジラはますます苦しそうに息を吹き上げた。私は自分にバケツしかないことを悔やんだ。
「死なないで」
自分にも言えないことを口走った。クジラに言っても仕方のないことなのに懇願した。
「死なないよ」
大きく息をつきながらクジラが言った。私たちはどちらもそれが嘘だと分かっていた。
厚い雲の向こうで太陽が落ち、あたりはいよいよ夕闇に包まれ、稲光だけが妖しく空を照らした。自分のつま先も見えなくなるまで粘ったけれど、私はとうとう時間切れを受け入れた。持ってきた時と同じようにリュックにバケツをしまい、レインコートは着たままで真っ黒の海に背を向けた。最後にもう一度、振り返ってクジラを見ることはできなかった。
その後、あのクジラがどうなったかの知らせは聞いていない。
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夢
今こうして1日を終えて、星空の下で瞼を閉じる。みんな静まり返って、端から砂の城のようにすっかり滑り落ちて、翌朝にはまあたらしい世界が日の光と共にあればいい。今ここにあるものは1日だけの悪い冗談で、目を覚ました時には横たえた体の下は瓦礫ではなく草むらで、いつ崩壊するかわからないコンクリート塊ではなくさらさらと揺れる木陰が日差しから守ってくれている。ここはどこなんだろう。本当に僕の生まれた場所なのだろうか。生き延びるためにどうにかしないといけない。でも僕の両手には何もない。胃の腑をねじるような音を立てながら降ってくるものが大地に突き刺さるたび、僕たちは少しずつ縮んでいく。空気に縋るように日に何十回も神様の名を叫ぶのではなく、オレンジの恵みに感謝を捧げたい。僕が夢に追いつく前に早く悪夢が覚めますように。僕はもう頭を抱えて怯えることはしない。それにはあまりに疲れすぎている。骨だけになりながら石を集めて蓄える。必要なその日に火をつけるために。
ソウシツ病【ショートストーリー】
ロクちゃんに捧げる。
書き始めてからおしまいまで、遅くなってごめんね。
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草むらを抜け森の奥へと誘う踏みしめられた黄色い道を右に左にゆらゆら辿っていくと、古い木材だけを組み合わせて作られた一軒のロッジが見えてくる。そこは日々、様々な困りごとを抱えた患者たちが通ってくる町の外れの小さな診療所だ。
「大変なことだ」
僕の胸から聴診器を離した老医師は口の中でモゴモゴとつぶやいた。春の午前のお日様の光が口元の白いヒゲにキラッキラッと反射している。この診療所も先生も、何十年と時を止めているかのように清潔で古くさく温もりがある。近所の多くの人はもっと設備の良い建ったばかりの総合病院に足を向けているけれど、僕はそれが何であれ何か不調があるたび子供の頃から診てもらっているこの診療所へと通い続けている。
「いやいや、大変だ」
先生は茶色い耳を外側にキュッと向けて目を閉じた。洋服と白衣の下から見える先生の全身の被毛は薄い黄色みがかった茶色だが、耳の外側だけは肥沃な腐葉土のように濃い茶色をしていて、耳の穴がある内側には白い毛がふわふわとはみ出している。僕はまだ小学校に上がる前、どうしてもとねだってあの茶色いすべすべとしたビロードのような耳に触らせてもらったことがある。それはびっくりするほどやわらかく、幼い僕はしばらく捻挫の痛みを忘れた。
「あの、なにが大変なんですか?」
ここのところシクシクと痛む胸をいつものように無意識にさすりながら僕はおそるおそる尋ねた。シャツをめくったそこには、誰がみてもわかるほどぽっかりと穴があいていて、まっくらな空洞が冷たい空気を吐いたり吸ったりしている。何もない穴を空気がごうっごうっと不気味な音を立てて通り過ぎていく。
「これはソウシツ病だな」
僕は「はぁ」とあいまいな返事をした。頭がうまく働かないので、どうして先生が老眼鏡の向こうから労わるような眼差しを向けているのかわからなかった。ようやくそこに喪失病と字を当てるまでしばらく時間がかかった。
「だけど……特に何があったというわけではないんです」
僕の言葉は宇宙の果てから聞こえてきた。僕の口から出た感触はしたのだが、何千キロも離れた厚い空気の膜を挟んで僕の耳に戻ってくる。診察室の大きな窓から差し込んでくる日差しは暖かいのに、僕の頭と体は乖離していて、包まれているとか暖かいとか感じることができずにいた。
「仕方のないことしか起きていないんです。どうにもならないことしか。それを気に病んだってしょうがないじゃないですか」
僕が話している間、頭の中のシャッターは先週のことを無理やり締め出そうとしていた。しかしきつく締めるほど胸のシクシクとした痛みは増していき、僕の目からは思わず涙がこぼれそうになった。僕がそれを堪えると、胸の空洞はビュオビュオオ、グオグオと嬉しそうに呼吸した。まるでまた数センチ僕を食べて穴が一回り大きく暗くなったような感じがした。
「うーむ」
先生はよいしょと立ち上がると診察室の壁側の棚に歩み寄った。一歩動くたび逆光で金色に輝く先生を目で追っていると、持ち手のついた幅30センチほどの金属製の箱を取り出し僕の目の前に差し出した。先生が蓋をあけるとそこにはぎっしりと湿布のようなものが詰まっていた。
「ここから一枚を抜き出しなさい」
まるで手品師の口上のようなことを言われて僕はためらった。ギチギチに詰まったそれらは様々な色や形をしているようで、湿布のような薬品臭さはなく、花や、草の種や、日向や、小川や、焼きたてのパンのどれかのような、どれものような香りがした。僕はどれを選んだらいいのかわからず途方に暮れて先生を見上げた。
「これぞと思うものを選べば大丈夫」
揺すられた箱がザクザクっと言った。僕は目を閉じ、胸の痛みを聞きながら箱の中にエイヤッと片手を突っ込むと中から一枚を引っこ抜いた。それは口の周りが黒い仔犬の形のワッペンだった。先生は手術用の針と糸を取り出すと、僕の胸の空洞にワッペンを当てて塞ぐようにして、慎重にひと針ずつ縫い付け始めた。先生の手先の毛は胸元と同じように白いが、爪は真っ黒だ。その爪の先を使って器用についついと縫われていき、胸を通り抜けていく冷たい風は治まっていった。それでも僕はこんなことでと半信半疑で、黒い目と黒い鼻をした胸の仔犬を指先でつついたりした。
「ソウシツ病は実際には何も失くしていないし、断たれていないんだ。その『仕方のないこと』がなんであれね。でも穴が開くのはまだずっといいよ。体が空洞のお飾りになってからじゃ遅いから」
僕の胸はまだシクシクと痛んでいた。けれど穴のあった場所を無意識にさすると仔犬が元気よく尻尾を振ってワンと吠え、僕の心臓を久しぶりにドキドキとさせた。