toripiyotan

何回もおなじこと喋る

ブログ引っ越しのお知らせ

はてなブログからwordpressへブログをお引っ越しすることにしました。

これまでの分はしばらく残しておきますが、今後の更新は新しい方でのみとなります。

もしよかったら、今後はそちらを覗いてみてもらえると嬉しいです!

 

NEW!

↓↓↓

https://toripiyonotes.wordpress.com

アブストラクト[ショートストーリー]

 彼はいつも私に理解できないものを描いていた。キャンバスは黒く、あるいは赤く、あるいは灰色で、獣が噛み合っているか、あるいは人がまぐわい合っているか、締めあっているような、どうとも表現のしようがないものばかりだった。彼の絵はごくたまに高額で売れた。私にはどうして売れるのかちっとも分からなかった。それでも彼自身は優しく、ユーモアがあり、ティーネイジャーの頭に文学を叩き込むという私の仕事にも敬意を向けてくれていたので、一緒にいることは心地良かった。

 「一体何を描いているの」と私は幾度となく尋ねた。そこに現れている彼の一部を理解できないことが歯痒かった。彼は戸惑い、どこかバツが悪そうに答えた。「何をというわけじゃないんだけど…」

 何度見てもよく分からない。渦巻きのような、引き裂き傷のような、顔のような、内臓のようなその表現を、私はどうにか腑に落ちるように解釈しようと努めた。夜に帰宅してガレージのアトリエへ彼を夕食に誘いに行った時、日曜の早朝にベッドにいない彼を探しに行った時に、私は彼が向かうキャンバスを見た。絵の具は飛び散り、あるいは擦りつけられ、愛撫のように拭われていた。そこで展開されているものは私の参加を拒絶する舞踏会であり私は疎外感と羞恥を覚えた。私は踊り方が分からない田舎者の気分だった。私は分かるふりをするには言葉に忠誠を捧げすぎていたから、せめてもの自分の尊厳を保つ方法は立ち尽くし正直に分からないと言うことだけだった。彼は私に気付くといつでも私と日常の細々としたこと、食事や買い物といったことへと注意を向けてくれるけれど、描きかけのキャンバスは必ず彼が戻って当然だという顔で超然としていた。

 「分からないことは良いことかもしれない」と彼は言った。「分からないからこそあなたを愛しているのかも」とも。私はむっとした。「それは自分よりも劣った存在に対する優越感ゆえの安心ではないか?」私が反論すると彼は両手を上げて降参した。「あなたに知性で勝てたことなんか一度も無いよ。そういうことじゃないんだ」彼は私と争おうとしなかった。シリアルのメーカーのようなほんの些細なことについても。「君が描くものが可愛くはないということは分かっているよ。君本人と違って」けれどあれまで含めての彼本人ではないのか、と迷いながらも私の言葉が正直に立っていられるのはそこまでだった。残りは混沌とした煙の中にあり最後まで掬い取ることができなかった。

 ガレージの床で失血死している彼の亡骸は仕事から帰宅した私が見つけた。たまたま入った強盗が家の中のテレビや現金を持ち出したのち、たまたまガレージまで荒らしに向かい、たまたま彼と鉢合わせた。強盗は絵画の価値は分からなかったようで一点も失われてはいなかったものの、驚いた二人の人間がしばしば陥る不毛な状況、すなわち暴力によって彼の命は奪われた。葬儀に伴い彼の体は運び出された。命が失われると様々な手続きが要求される。それらの後に人々は去り、彼の存在を思う場所は家から墓地へと移った。私にはそれは理解しがたいことだった。

 何週間もソファで横になり段ボールのような食事を噛み壁のシミを見つめて過ごした。体の中に巨大な空洞が空いていて底が見えない心地がした。あまりに痛くてむしろ麻痺しているようだった。過去も現在も考えられず、いま現在に標本のようにピン留めされていた。私は彼を探しにガレージへ向かった。いるはずだ。そうだろう?いつもいたのだから。しかし床に乾いた広い血の染みが残っているだけで、そこは主人を無くしたキャンバスと絵の具とがごちゃごちゃと溢れるほこりっぽい空間だった。私は血の染みの上に体を横たえた。彼が最後に描いていた絵が私を見下ろした。

 それは全く新しい印象を与えた。私は制作途中のそれをこれまで何度も見ているし、その度にいつも通りの分からなさしか感じられなかった。けれど今、彼の血の上に寝転んでそれを見上げながら私はどうしようもない慕わしさを感じていた。それが彼によって描かれたものだからではなく、それ自体が私に語りかけていた。私の中へ、私の暗い空洞へ。それは蠢いていた。黒から赤へ、赤から灰へ、鋭く引き裂かれた女たちは獣の頭を食らい、蛇たちは絡まり合ってまぐわっていた。それらは私を揺さぶった。定義は溶けて物と人は曖昧になり境界は意味を無くしていた。私は満たされていた、そこには全てがあったから。私は寝そべったままキャンバスの表面に手を伸ばした。泥のように柔らかく、私の手のひらは埋まった。内側から手を引かれ、私は扉をくぐるようにその中へと引き込まれた。

強い風【ショートストーリー】

ここではいつも強い風が吹いている。

あまりの強風で目を開けていられない。乾いた地面から巻き上げられた砂が耳や鼻の穴から吹き込んでくるのを防ぐため、わたしはぎゅっと顔を包む布を押さえる。体が煽られるので小さな歩幅で少しずつ進む。わたしの右から左へと吹き抜けていく風は、止むことを知らない暴力だ。風に質量などないはずなのにバシバシと痛みを感じる。

空は晴れている。けれど風のせいで白い。太陽は球ではなく境目のあいまいなぼんやりとした明るさの中心地でしかない。開けると乾いて涙が止まらなくなる目で懸命に前方を見つめても、数百メートル先さえ煙っている。風が強い。歩いていられない。

あなたはわたしの向かいからわたしと同じようにやや背を屈めて歩いてくる。風に攫われないように歩幅を小さくして足元を見ているからすぐそばに来るまでわたしに気づかない。わたしが腕に手を触れると驚いて顔を上げる。なにか言うけれど風がうるさくて聞こえない。わたしもなにか優しい言葉、会えて嬉しいと言おうとするのに、強風のなかでも届くよう声を張り上げるせいで、声も顔もまるで怒鳴っているようになる。あなたは来た方に振り返り、わたしと並んで歩き始める。わたしを迎えに来たのか、道の途中でわたしと会ったところで外出を断念して引き返しはじめたのかは分からない。それについて尋ねることも答えることもこの風の中では困難だから、わたしたちはただ腰を屈めて並んで歩く。時に強風の中に隠れていた突風がわたしたちを地の果てに押し飛ばそうと現れる。わたしたちはがっしりと腕を取り合い、互いにしがみついて進む。葉裏のカタツムリのようなのろのろとした速度で、足裏を地面に粘着させるように。細めた目では先がどのくらいなのか見通せない。わたしはわたしの右足と左足が、必ずわたしを運んでくれると信じて動かすしかない。

しっかりと顎紐をしめた帽子からわたしの髪が溢れてぐるぐると生き物のように暴れる。しがみついたあなたの顔をわたしの髪が平手打ちしている。わたしは髪を片手でめちゃくちゃに服の襟に入れ込むけれど、風が再び引っ張り出すのも時間の問題だとわかっている。わたしたちは互いを互いの砂袋のように握りしめている。そのほうがきっと地面に張り付いていられると思っている。だけどそうして腕を取り合っていれば、片方がもう一方の風船になってしまう可能性にも気づいている。その時は手を離すべきだろう、おそらくできないけれど。

ここでは強い風が吹いている。

目も開けられないわたしたちは互いにしがみついてゆっくりと進んでいく。

渡る【ショートストーリー】

 テンはくすんだ水草色の男の着物を身につけた。それは軽く、歩きやすく、自由だった。鮮やかな首飾りも淡い桃色に透ける腰巻も、およそ娘と表現するものを全て脱ぎ捨てた。小さな包みを文机の上から取り上げるとそっと戸を開け足音を忍ばせ庭を抜けた。約束通り、川の渡し場には小さな火を持ったシラヒが待っていた。

「本当に行くのか」

テンよりふたつ下のシラヒは心配そうに言った。テンは黙って頷くと粗末な小舟に乗り込んだ。シラヒはしぶしぶ向こう岸に向けて櫂を漕ぎ始めた。

「なあ、なにも出て行くことないんだ。おれもうすぐ顔に刺青を入れてもらえる。そしたら郷の男になる。そしたらテンはおれと結婚すればいい。そしたら少しは守ってやれる」

舟を進めながら何度も言い合った話をもう一度シラヒが懇願するように持ち出した。シラヒとテンは生まれた時から友達だった。離れるのが不安なのはテンも同じだった。

「あんたは本当に頭の足りない大馬鹿野郎だよ、シラヒ」

テンは優しく罵った。本当の喧嘩ではなく気心の知れた者同士のじゃれあいのようなものだ。けれど言葉は真実でもあった。

「おれにお前みたいな学がないのは仕方ないだろ」

「それなら代わりに女になるかい?だけどそうすると、あんたは一生母の物だよ」

シラヒは黙って舟を進めた。小さな灯りを戴いた小舟が月も星も映らない真っ黒な川面を裂いて進んでいく。ようやく川の半ばまで進んだところでシラヒが声を上げた。

「まずい、もう見つかった」

テンも振り返った。郷の渡し場にかがり火を掲げた人影が小さく見えた。

「テン、おれは郷に戻らにゃならん。このまま飛び込め、泳いで渡れ」

慌てた声に、テンの胸にも焦りが広がった。向こう岸まではまだだいぶ遠い。これほどの距離を泳いだことはなかった。それでも今ここで捕まる訳にはいかず、テンは頷いた。

「道は避けろよ」

「わかっている」

さようならも言わずにテンは真っ暗な川に飛び込み、シラヒは舳を翻し元来た船着場へ引き返した。

 川の半ばは想像以上に深く冷たく、そして流れが早かった。テンがいくら懸命に水を掻いても目の前の岸は近づいてこない。つま先の下にはただ水しかなく、背伸びをしても川底の砂には届かなかった。顎を上げていようとするが幾度も押し流されて鼻や口から水が流れ込んだ。沈めば耳の穴に不快な水圧がかかった。テンは無我夢中で泳いだ。ほとんど溺れそうになりながらようやく河原の砂利に身を投げ出したときには全身びしょ濡れで息を切らしていた。わずかな持ち物も失っていた。けれど何か決定的なものを落としたような気がして体をあちこち触ってみた。怪我はなかった。右手には唯一、小刀を握りしめていた。しばらくして気がついた。着けているのも忘れるほど生まれてこのかた外したことのなかった腕輪を失くしていた。家の娘の証となる腕輪だった。

 

 テンは河原から木陰に入り、震えながら明るくなるのを待った。ひとりぼっちになるのは初めてだった。持ち物もなく、身一つで、そしておそらく追われていた。逃げたいという気持ちでいっぱいだった時には感じなかった恐ろしさがのしかかってきた。どうしたらいいのか途方に暮れていた。縮こまっていたテンに、体がどうするべきか指示を与えた。空腹が鳴いた。テンは半乾きになった髪を結い直し、小刀を腰の後ろに刺して森の中へ入った。摘める実を摘み口に入れると酸味と甘さで気持ちが緩んだ。

「なにか食べ、見つからないように生きていればいい」

テンはひとり呟いた。赤いヤマモモを食べているとそれはひどく簡単なことのように思えた。川で流されたおかげで道からはずいぶん外れていた。安全に隠れられる場所を探すため更に森の奥へ進むことにした。

 

 丸一日森の中を歩き回り、ようやく雨を凌げそうな乾いた岩場を見つけた。獣のにおいがしないか確かめながら、おそるおそる中に入った。夕闇が迫っていた。ひとまず一晩を過ごせそうだと横になると、二日寝ていない疲労がテンを深い眠りに引き摺り込んだ。夢のない泥沼のようにねっとりと重い睡眠は、夜明けよりも早くに甲高い声で破られた。目を開けると、なにか大きなものがテンの潜り込んでいる岩場の前を怒り狂ってぐるぐる回っている。それはワシだった。それも大きなワシだった。両翼を広げ、黄色い嘴を開いてガガガガと威嚇している。その大きさと声音はテンを怯えさせた。その鋭い爪と嘴をなんとか回避できないかとじりじりと身を縮めたまま這って逃げ出た。ワシは執拗に鳴き続け容赦する気配はない。テンは震えながら小刀を胸の前で握りしめた。その時、ワシの威嚇に混ざって同じくらいざらついた怒声が聞こえた。テンがそちらに目を向けると、テンの半分ほどの背丈しかなさそうな老婆が自分の体ほどもある棒をむちゃくちゃに振り回しながらワシに向かってきていた。

「この根性曲がりの性悪の意地悪のガラガラ声の大馬鹿ワシ!」

老婆は猛烈な勢いでワシを罵りながら木の棒をバシンバシンと地面に叩きつけて迫っていった。ワシは一瞬あっけに取られた様子を見せるとくるりと身を翻して老婆の届かない高さまですいっと飛んで逃げた。テンは朝日が出る前の薄暗い森の中で腰をぬかしたまま小鬼のような老婆を見つめていた。

「今日は誰がいじめられとった」

老婆は中空にむけて尋ねた。その目は白濁していた。テンはどうにか喉を開いて声を出した。

「わたしです」

「ほお、婆は人の子に会うのは久しぶりだ。こっちに来てみろ」

テンはよろよろと立ち上がって老婆のそばに寄り、その手をとった。老婆はあまりに小さいので背を屈める必要があった。

「助けていただきありがとうございます」

「あいつは根性悪のいやなワシなんだ。食うわけでもないのにああしていじめてまわるのさ」

老婆はテンの手をよく確かめるように握り、見えない目でじっと顔を覗き込んだ。「お前、婆の薪拾いをちいと手伝ってくれるなら朝ごはんを食べさせてやろうか」

テンは頷いた。それから気づいて口を開いた。

「はい。お手伝いします」

 

 老婆の住処は骨組みのしっかりとしたごく小さな小屋だった。質素だが居心地がよく、雑多で埃っぽかった。他に人の気配はなく不揃いな食器からも老婆がひとりで暮らしていることは明らかだった。テンが帰り道に集めた薪はかまどに焚べられその上では湯が沸かされた。熱い茶と素朴な種無しのうすいパンはテンにとって涙がでるほど美味かった。

「童、お前はなにができる?」

老婆が茶を啜りながら尋ねた。テンは困惑した。

「ウサギ狩りはできるか?薪割りは?魚は獲れるか?粉挽きのやり方は?」

テンは顔を赤くした。郷にいた頃、友人たちはそれらを家の手伝いで覚えていった。テンは仲間に入れず泣いたものだった。

「わたしは薬になる草が少しわかります」

テンが屈辱と共に小さな声で答えると老婆はほうほうと声を上げた。

「そうしたら文字もわかるかね、婆はもう目がダメだが古い本がまだあるよ。ほらたぶんあのへんだ」

老婆はあてずっぽうに指差した。たしかにその指の指し示す窓の下に蜘蛛の巣をまとった分厚い本が数冊ならんでいた。

「お前ができることをするなら、ここで好きにしていい。だけどしなくてもいい。行くのも居るのも勝手だ。童も婆も」

老婆の言い方はテンには奇妙に聞こえた。どう答えるべきか迷う言い方だった。逡巡したのち「はい」とだけ答えた。

 

 老婆は盲目であるもののテンの手伝いをほとんど必要としなかった。小屋の裏手の小川に仕掛けた罠を引き上げて魚を獲ったり畑の世話をしたりせっせと動き回る老婆のあとをついて回ってテンは仕事を覚えていった。暮らすことに関してテンは知らないことが多すぎた。料理の方法もわからず、鶏の締め方も知らなかった。それはテンが郷を離れて生きていくために必要となる能力なのに、自らの無知に気づいてもいなかった。テンと母の食事は必要なとき常に用意されていた。その裏側をテンが覗くことを母は嫌った。どこからくるかなど知る必要はないと言った。

「自分の食うものは自分でこしらえるんだ」

老婆はテンに言った。

「ワシもネズミもそうやってる」

 テンは老婆の蔵書を引っ張り出して読んだ。ひとつは生活の知恵が書かれていた。食べられる植物の育て方、小魚の罠の効果的な作り方、怪我の応急処置の仕方。もうひとつは物語だった。勇ましい神や王たちの古い戦いの言い伝え。それよりずっと小さな本を開くと歪んだ手書き文字が並んでいた。老婆の古い日記のようだった。テンはそれは読まずに窓の下に戻した。テンは本に書かれた知識と老婆の手さばきから暮らしに必要な知恵を少しずつ付けていった。

 

「これは食えるよ」

老婆が摘んだ草の匂いを嗅いでテンに渡した。テンも同じものを摘み取って背負ったカゴに入れた。食える、食えない、苦い、毒、と言いながら老婆はテンに野草を渡したり放り捨てたりして森の中をどんどん歩いていく。いくつかはテンも知っている植物だった。屋敷の裏手で育てていたのと同じ薬草もあった。しかしそのことについては何も言わなかった。知識は呪われた記憶のように感じられた。川を渡る前のことは全て無かったことにしたかった。新しい経験と新しい知識だけで暮らしたかった。

「童にも婆にもできないことがある」

老婆は集めた野草を束にしてぐるぐると紐でくくり天井の梁から逆さに吊り下げた。

「どんなことでしょう」

テンが尋ねると老婆は台所の戸棚を開いて言った。

「粉挽きだ」

穀物の粉末を貯蔵した大きな缶はほとんど空になっていた。

「街に行ってなにかを売って、それで粉を買わなきゃならん。売れるものをかき集めるんだ」

老婆は、これみたいに、と野草を指して言った。

「これで、どのくらいの粉が買えるんですか」

テンが尋ねると老婆は椅子に大義そうに腰掛けてため息をついた。

「これっぽっちも買えないくらいだね。ウサギが獲れれば皮と肉を別にして両腕たっぷりの小麦と換えられる。キジも良い値になる。だけど婆はもう年だし、昔みたいに狩りが上手くないからね。こういうやつをどうにか集めてなんとか芋のない季節を越えられるだけ恵んでもらってるのさ」

老婆はテーブルの上の冷えた茶を湯呑みに注いで啜った。テンは自分の湯呑みにも茶を注いだ。朝から置きっぱなしになっていたので出涸らしで渋く冷たかった。

「婆、わたしは薬になる草を集められるかも知れない。ここには煎り場も臼もないけれど、材料だけ集めたら小麦を買うだけにならないかな」

老婆はテンに白い瞳をじっと見据えて言った。

「そりゃあなるさ。そうしたかったらするといい。薬屋に持っていって金に換えてもらったがいいさ、値がわかる奴にね。もしそうしたいなら」

テンは下を向いて手をもじもじさせながら答えた。

「わたし……、そうしたくはない。わたしにそれを教えたひと…たちは、わたしを自分の物にするためにわたしに教えた。もしそれを使うなら、わたしはそのひとたちからずっと自由になれない気がする」

 爪の間には土が入り込んで黒ずんでいた。老婆といるとひっきりなしに土を触ることになるので郷にいた頃のような綺麗な指先になることがない。けれどテンはそのほうがずっと良い気がした。

 テンが物思いに沈んでいると、老婆が立ち上がって小さなテーブル越しに身を乗り出し手探りでテンの肩を掴んだ。それから顔を探り当てて両手で頬を挟むと見えない目でテンの黒い目を覗き込んだ。

「よく聞くんだ童、お前が嫌がってもあんたが持ってしまってるものは否定できないよ。わたしもお前も幸運だ、字がわかるからね。それが望んで得たものじゃなくても幸運なんだ。お前が捨てたがっているものも喉から手が出るほど欲しがってる他のやつがいる。そいつらは仕方ないから自分の手や足を売るしかないんだよ。お前に知識を与えたのが殺したいほど憎んでるやつだったとしても、知っていることがお前を支配できるなんてことはない。お前がお前の知っていることを使うんだ。言ってる意味がわかるかい」

老婆の両腕の力は小柄な老人とは思えないほど強かった。ごつごつした手のひらは大きく、狩りが上手いという言葉がテンの中で反響した。

「わかった」

テンが頷くと老婆はぱっと手を離して椅子に座り直した。

「だけどどうするかはお前の自由だ。行くのも居るのも自由、童も婆も」

 

 早朝、テーブルの下の寝床から起き出したテンは籠と小刀を持って老婆を起こさないようそっと小屋を出た。専用の菜園から摘み取るのと、森の中で似た植物の中から目当ての薬草を見分けて摘み取るのとでは全く勝手が違った。しかし森の利点は樹木性の薬が手に入ることだ。テンは蝶の後を追い見つけた木の葉を揉んで確かめると、幹に小刀を立てて剥ぎ取った。樹皮の内側は黄金色をしていた。そうして草や樹皮や根を集めて回ると昼前には籠がいっぱいになった。

 小屋に戻ると老婆が魚を焼いていた。

「ずいぶん変わった匂いがするようだね」

火にかけた二尾の魚を返しながら老婆が言った。にやりと皺の寄った口を歪めて笑っていた。

「薬の材料を採ってきた。乾かして街に持っていくよ」

テンが照れくさい心地で言った。

「そんなら昨日の野草は食っちまおう」

テンと老婆は昼に焼いた魚にかぶりつくと、夜には残った骨で出汁をとってちぎった野草と汁にした。

 

 街までは丸一日かかる、と老婆は言った。テンはぎりぎりまで通りに出たくなかったので繰り返し森の中の目印を聞いた。その道行きの途中までは何度も歩き回ったことがあるが、足を踏み入れたことのない場所は不安だった。しかし一番恐ろしいのは森よりも街だった。テンはそれまで郷から外に出たことがなかった。知っている人間に鉢合わせることも知らない人間とやりとりすることも不安だった。

「婆は行きたくない。婆と行くと遅くなる、ひとりで行け。嫌なら行かんでもいい」

老婆は頑なに同行を断った。結局、テンが老婆にいて欲しいのは心細さだけの問題だった。売りたいものについての知識はテンの方がはるかに多い。ぐずぐずしていても粉は増えないのだ。テンは意を決して出かけて行った。

 

 街に入る前に、テンは頭を布ですっぽりと覆って顔を隠した。街は真っ直ぐな通りの両側に軒が連なり、そこにおよそあらゆるものが並べられやりとりされていた。往来する人の多さに圧倒されながら、テンは歩き回って薬屋を探した。それは食べ物を売り買いする通りよりも奥まった人通りの穏やかな一角にあり、大きな格子状の窓で店の中を覗けるようになっていた。テンは中に他の客がいなくなるまで待って扉を開けた。

「薬の材料を買ってもらえますか」

店主と思われる痩せた中年の男性は頷くとテンを手招きして暖簾のむこうの作業場に通し、大きな机の上に籠の中を広げるよう言った。

「なんだかわからんものも混ざっとるな」

「煎じて飲むと腹に効きます」

店主は怪訝そうな顔をした。どちらにしろ自分が使わない材料はいらないと言った。

「銀二枚が精一杯だな」

テンは頷いた。相場を知らないのでそれでどのくらいの小麦が買えるのか分からなかった。しかし探るような店主の目から早く逃げたかったので言われた値で籠を空にした。

「お前は調合もできるのか」

店主が尋ねた。

「道具があればできます」

テンは平坦な声で答えた。

「この街には川向こうの郷の薬売りも来る。顔に刺青のある男たちだ。しばらく前に仕込んでいる娘が逃げたと言っていた、郷の屋敷の後継だとかなんとか」

テンは受け取った銀貨をぎゅっと握りしめた。すぐに走れるように足が緊張していた。

「うちとしては商売敵は少ないほうがいい」

テンが空になった籠を背負って突き返された薬草と銀貨を持ち店を出ると、店主がその背中になにかあればまた持ってくるように言った。

 

 街には色とりどりの反物があった。衣服も耳飾りも靴も珍しい生き物も果物も豆も酒もあった。けれどテンはそれらをぶらぶら見て回る余裕などなかった。布を深くかぶり俯いて急いで通り過ぎた。薬屋でもらった金は籠にずっしりとくるくらいの量の粉に変わった。鷹揚で明るい粉屋にも口を利かずそそくさと立ち去った。テンは早く森に戻りたかった。ひとりになりたかった。

 街の中と外を区切る垣根のあたりで影が動いた。テンはどきりとして飛び退った。心臓がどきどきと打っていた。影がまた動き、そして憐れっぽく鳴いた。それには目があった。耳もあった。犬だった。少し近づくと真っ黒な犬が垣根に巻き付いた旺盛な勢いの野葡萄の蔓に絡まって抜け出せなくなっているのが見えた。犬は目が合うと助けを求めるようにもっと激しく鼻鳴きをし尻尾を振った。テンは急な緊張の落差に安堵のため息をついて近づくと、蔦を小刀で切って野葡萄に縛り上げられた犬を救出した。犬は蔦が緩むとぴょんぴょん飛んで垣根を離れ、全身をブルブルと震わせて喜んだ。

「もう危ないところで遊ぶな」

そう言ってテンが通りに出ると、犬は当然のように飛び跳ねながらついてきた。道のあちら側やそちら側でにおいを嗅いでは走ってテンに追いついて見上げてくる。

「わたしにはお前を養う余裕はないんだよ」

テンは犬に言った。犬は小さな狼のような姿だった。足がしっかりと大きく、まだ若い。冬になれば毛が厚くなりそうで、耳はピンと立っており目の色は薄かった。はしゃいでぐるぐるとまとわりついて歩いていた犬が、テンが道を外れて森に入っていくと付いてこなくなった。振り返ると道との境界でどうしようか迷うように立っている。テンが自分を見ているのに気づくとまたクンクンと鼻で鳴いた。おそらく彼のこれまで訪れたことのある境がそこまでで、これより先には踏み入ったことがないのだろう、とテンは思った。それならそのまま街に戻ってまた仲間と暮らせば良い。テンは背を向け森の中を進んだ。背中が遠くなるにつれ犬の鳴き声は大きくなった。テンは犬の方に少し戻って声をかけた。

「来るなら早くおいで。うちは遠いんだよ」

犬はおずおずと草を踏み、急ぎ足でテンに追いついた。

 

 森の中で一夜を明かし、翌朝テンと犬は老婆の家に戻った。

「婆、戻りました」

早くに起き出して働く老婆にしては遅くまで寝床にいるなと訝しみ、籠を置いたテンは布団に丸まった老婆を揺り動かした。老婆は目を開けたが息が細かった。

「童、よかった間に合った。婆はもう行くから頼みがある」

テンは狼狽えた。老婆にはいつもの逞しさがなく、地面に落ちた皺くちゃの小さな蝙蝠のように見えた。

「婆、粉が買えましたよ。行くってどこに行くの。具合が悪いのか、なにか欲しいものないか」

老婆は弱く首を振った。か細い声で囁くので、テンは老婆の口に耳を寄せた。

「婆が行ったらあの根性曲がりのオオワシが婆の体をつっつき回さないようにしっかり埋めてくれ。あいつには我慢ならん」

 テンは命の細くなっていく老婆の寝床の横にじっと座っていた。犬はテンの脚に頭を乗せて眠った。老婆は昼過ぎには呼吸をやめた。心臓は音を止め皺だらけの体はてろんとした布人形のようになった。

 老婆の最後の罠にはたくさんの魚がかかっていた。テンはそれを犬と分けあって食べた。食事の後に老婆の墓を作った。テンは初めて老婆と会った岩場のそばに深い穴を掘った。そこは他より高くなっていて見晴らしが良かった。小さな体のためとはいえ一人で墓穴を掘るのは大仕事だった。木の根を避け石を除き汗を流しながら体を動かしていると気が紛れた。深い穴の底に敷布で包んだかつて老婆だった体を横たえ土をかぶせると大きな石をいくつも運んできて並べた。テンは犬と家に戻るとこれまでのようにテーブルの下ではなく老婆の寝床に眠った。

 

 犬はホノと名付けられた。ホノは気ままに森の中をぶらついた。腹が減ると家に戻った。時には自分でネズミや鳥やトカゲを狩った。テンが呼ぶと一緒について回った。夜はテーブルの下で眠った。最初にその男たちに気付いたのもホノだった。テンと木の実狩りをしているとふいにホノが顔を上げた。耳をくるっと回しながら黒い鼻をしきりに細かく動かしている。テンはホノが進む方へ足音を忍ばせてそっと進んだ。高く伸びた下草と木の影に隠れて見ていると顔に刺青のある男がふたり、ざくざくと通り過ぎて行った。テンはこれまで森のこちら側で郷の男たちを見たことはなかったが、見つかるのも時間の問題かもしれないと思った。

 

 日が落ちてから渡し場へ向かった。テンは郷を出た日以来初めて河原に戻った。小さな火を振ると、向こう岸からも火が振られ、小さな舟が向かってきた。暗い水面に大きな月が映り、それを割るように舟が近づいてくる。

「まだお前が渡し役をさせられててよかったよ」

テンは懐かしい顔にほっとした。顔に刺青を入れているがシラヒは別れた時から変わっていなかった。

「お前、テンか?」

シラヒは信じられないと言いたげな声で尋ねた。灯りをテンの顔に近づけてまじまじと見る。

「ぜんぜん別人になったみてぇだ。なんで戻ってきた?」

テンは答えず小舟に乗り込んだ。ホノも当たり前のように乗り込み、それだけで舟はいっぱいになった。シラヒは舟を返して郷に向かって漕ぎ出した。

「お前が出て行ったときは大騒ぎだったぞ。まだ郷の男が何人か時々探しに行かされてる」

シラヒが暗い水に櫂を差し入れながら行った。ホノはシラヒの草履のにおいをしきりに嗅いでいる。テンは背を向けたままじっと郷の方を見つめていた。

「母に会いに行く」

「じゃあ裏庭から入れ。誰にも会わんで済む」

生まれ育った岸が近付いてくると胸が締まった。見慣れた景色への苦々しさは薄れていたが哀しさがズンと胃を重くした。肩の上にホノが温かい息をハッハッと吹きかけた。

「お前はシラヒとここで待ってろ」

テンはホノの耳の下を撫でて屋敷の敷地へ向かった。

 

 母の部屋は豪奢だ。母自身もまた着飾っている。その時も透けるほど薄く織った玉虫色に光る上掛けを着、金のシャラシャラ鳴る重い耳飾りを付け、蝋燭の灯りを頼りに黒檀の文机に向かっていた。テンが戸を開けて入ると、母は目だけチラリと上げて口を開いた。

「なんて汚い格好をしてる。屋敷の女として情けなくはないのかい?顔を洗って着替えて来なさい。どれだけ探させたと思ってるんだ」

母は書き物を続けながら言った。

「わたしは戻ったのではありません、もう探さないでほしいと言いに来ました」

テンが答えると母はようやく手を止めて顔をあげた。

「もう一度言ってみろ」

墨を引いた母の目は相変わらず大きく鋭かった。テンは臓腑が縮み上がるのを感じた。馴染みの感覚だった。

「わたしは屋敷に戻りません。出て行きます」

母は立ち上がるとドシドシと大きな足音を鳴らしてテンに近寄り、胸ぐらを掴んで顔を寄せた。

「なんて娘だろうね、母に逆らうなんて!あんたはあたしの唯一の後継ぎだよ。出ていくなんて許すはずないだろう。あんたは郷から出られないよ。あたしの仕事をこの頭に叩き込むんだ。それから郷で娘を産んで、今度はあんたがその子の頭にあたしの仕事を叩き込むんだ。あんたはそのためにいるんだよ」

テンは怯えが表に出ないように歯を食いしばった。掴まれた襟首を振り払おうと母の手首を掴むと想像よりも細く筋張っていた。

「わたしは行くのも居るのも自由です」

母はテンの呟きをせせら笑った。

「自由なんてあるもんか。あたしが死ぬまであんたはあたしの物だよ。あたしが産んだんだ。あんたの手も足も名前も頭の中だってあたしの物だよ。息子は郷の物、娘は母のものなんだから。わかったらそのバカみたいな服を着替えてこい」

 テンの襟首を離した母は文机に向かい再び書き物に戻った。テンは母をじっと見つめていた。それからゆっくり小刀を取り出すと小さな鞘を抜いた。

「本当は必要になった時に売ろうと思って残していました。でも母様にあげます」

テンは自分の髷を切り詰めた。短くざんばらに残った毛先が首に当たった。

「あなたの娘は死んだと思ってください」

母はテンをぎらぎらとした目で見つめていた。

「うちの薬は一家相伝だよ。あんたに仕込んだことも全部うちのモンだ」

「わたしに与えたのはあなただけど、それはわたしを支配しない。どう使うかはわたしの自由だ」

テンは立ち上がると戸を開けて母に背を向けた。

「あんたをここまで育てたのに、あんたはあたしを見捨てて行くのか。あたしはこんなにあんたを愛してやったのに」

テンは答えなかった。さようならも言わずに戸を閉めて廊下から庭に降りた。

 

 川の渡し場には小さな火を持ったシラヒと耳をそば立てたホノが待っていた。ホノはテンの姿が見えると尾を降りトコトコと近寄って出迎えた。テンはホノの頭を撫でてやり、黒い水面に浮かぶ小舟に一緒に乗り込んだ。

「帰るぞ」

月明かりで照らされたテンをまじまじと見ながらシラヒは櫂を漕いだ。川は静かで穏やかだった。

「お前はまた格好ようなったなぁ。今度遊びに行くけ、どういうことか聞かせぇ」

シラヒの言い方にテンは照れくさく頬をゆるめた。郷に背を向け、向こう岸に着くまで膝にのせたホノの頭をゆっくり撫でていた。

実験[ショートストーリー]

精神疾患についての描写があります。

 

 

 君は不幸だと思う。若い心臓と健やかな手足と聡明な瞳を持っているのに君の背には泥水を吸った厚い毛布のような憂鬱が重く乗っている。よりよい地面を求めて根を出す多肉植物のように憂鬱は君の背にがっしりしがみついているからちょっとしたことでは滑り落ちたりしない。

 君はそれでも立ち上がる。それが剥がれ落ちるようにと懸命に走る。髪を煽り立てるような豪速で車を走らせる。一縷の希望に縋って駆け上るがその重さに引き戻される。タールのようなベトついた暗い憂鬱はさらに重さを増している。

 君は興奮を求める。血のたぎりや情熱で背中の客を焼こうとする。君は活動的になる。夜を徹して踊る。何十時間も芸術作品の制作に没頭する。ひとときでも振り払えるならと君は酒を飲む。やがてそれは度を越していく。胃を焼くほど強い酒の不味さを受け入れ始める。それでもじっとりとした毛布は戻って来る。ほんの少し背から離れたと思うとどっしり包み込む。君は他の人間を求める。皮膚の擦れ合う感覚は脳を高揚させる。ごく短いオーガズムで全てがリセットされる感覚を味わう。ようやく終わりかと安心する。けれど肩を撫でられている間にまた戻って来る。相手は引き留めるが君は意味を感じられないから立ち去る。やがて理解する。他人の肌にも腕にも一般に言うほどの効果はない。

 君は重い毛布を引き摺りながら深夜に家に辿り着く。君は眠りを恐れるようになる。朝が来るのを見張って昼に睡眠をとる。君は少しのじっとりとした休息と背中の重さを引き剥がす長い努力の間を何往復もする。どれだけ取り組んだところでまるでばね仕掛けのように舞い戻る。重く押しつぶすような圧力を背に受けながらそれをどうやって脱ぎ捨てればいいのか方法を探す。

 やがて君は少しずつ繰り返す力を失う。ひどく疲れもう一度早く走ったり興奮を作り出したり他者を得ることが困難になる。君は取り組みをやめたくなる。

 君は重力に負けて橋から大きな川へ向けて落ちていく。川面に打ち付けられたところで意識を失う。君はようやく苦しみから解放されたかと思う。しかし目が覚めるとベッドに寝かされ点滴を打たれている。看護師の服装をした人間に世話を焼かれる。さまざまなテストを受ける。特に死にたいと思うかと何度も質問を受ける。

 君は病院のベッドに留め置かれる。朝と晩に四種類ずつの薬を飲まされる。君は背中の重い湿った毛布の存在がなくなっていることに気づく。それは君の望んでいた解放ではなく、視力が弱くなって見えなくなっただけのような、初めからそんなものはなく妄想であったといわれているような不気味な無感覚さを伴っている。君はあまりのあっけなさに戸惑う。これをどう捉えたらいいのか分からない。そしてどうしたらいいのかも分からない。

 君は医師から病院から出ることを許可され手には朝晩四種類ずつの薬がどっさり持たされている。けれどもはや君には取り組むべきものは何も残されていない。君はそのまま公園のゴミ箱に薬袋を落としていく。

 

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「博士、この例も失敗のようですね」

小さな研究室で小さな画面を見つめていたメガネをかけた助手が、資料をめくるメガネをかけた博士に向かって言った。

「そうそう大発見などあるものではないよ。私たちは実験をしてより多くのデータを集めることが仕事だ」

メガネをかけた博士は資料を書類の塔の上にどさりと重ねて言った。ノートパソコンを開いて報告書の作成に着手しながら、まだ被験者を映した画面を見ているメガネをかけた助手にまた声をかけた。

「かまわないさ、彼らはこのために培養したんだから。治療法のためならいくら使っても」

メガネをかけた助手はうなずいて博士の向かい側のデスクにつき、まったく同じ顔貌をした五十二例目のデータを呼び出した。

熱病[ショートストーリー]

 湿った地面の上をずるずると引き摺られている感覚で私は目を覚ました。この二日ほどの記憶は薄い。部隊の仲間と散り散りになり私はひとりジャングルを彷徨っていた。水も食料も尽きておまけに身体中が痛み発熱しているのを感じていたのは覚えている。今は誰かが私の襟首を掴みどこかへ運んでいっているようだ。全身が湿っていて重く、泥や草にまみれている。ふと日が翳りどこか薄暗い室内に入ったようだった。私は乾いた木の床に放られた。骨の激痛に耐えのろのろと銃かナイフか、あるいはステンレスの水入れでも、何かしら武器になりそうなものを探ったが全て取り上げられているようだった。私を運搬してきた者が私に屈み込んだ。私は高熱で朦朧としており視界さえ白く狭まってグネグネと歪んでいた。その者は私のユニフォームを脱がせ肌着を捲り上げて頭から抜き取った。ズボンのベルトを外された時に私の脳裏に貞操の危機が掠め、残る気力の全てを集中させて身をよじりバタバタと抵抗したが汚れたブーツともどもまとめて呆気なく引き抜かれてしまった。私は戦慄した。自分の意識をひとつにまとめることさえ困難な状況で身ぐるみ剥がされ不安が急速に膨らんでいた。しかし私を裸にした者は私の両脇の下に腕を入れて持ち上げると粗末な寝台の上に引き上げて寝かせ薄いブランケットで首まですっぽりと包み込んだ。濡れた布巾のようなもので顔の乾いた泥を拭い取られながらそのひんやりとした心地よさで私は僅かに体の緊張を解き、そのせいで再び無意識の暗闇の中へ落ちて行った。

 

 背中の激痛で目を覚ました。私は簡素な小屋の中に寝かされていて高熱は続いており全身のあらゆる関節がキイキイと悲鳴をあげていた。私のそばに私を引きずってここまで連れてきたのであろう人物が近づいてきた。仰向けの私の肩の下に腕を入れて頭を起こすと植物の茎を切ったようなものを私の口に近づけた。それは新鮮な水だった。私は滴って来る水を啜り飲んだ。「ありがとう」私は彼を見た。肌は緑がかった砂色をしていて髪はなく大きな瞳の虹彩はヘーゼルよりもゴールドがかった色をしていた。この土地の種族だった。彼は私を再び横たえた。「あんたはどっち側だ?」私は掠れた声で尋ねた。自分が内側から死にかけているというのにおかしな質問をしている気がした。介抱されている以上、敵であるはずはない。私は自分の愚かさに笑おうとした。骨の痛みがそれを許さなかった。

 

 私は時間の感覚を失っていた。目が覚めるたび朝の白い光であり、深夜の月明かりであり、茜色の夕刻であり、蒸し暑い午後だった。私はしばしば呻き、のたうち、嘔吐した。私の看護者は私にどろりとした緑色の液体を飲むように差し出した。それはきつい青臭さと苦みでとてもではないが口に出来たものではなかった。私は子供のように顔を背けたが、彼は細い腕で私の頭を背後からがっしりと抱え込み、ふたくちほど無理やり流し込んだ。火照った背中に彼のひんやりとした体が密着していて心地よかった。私は無理にその液状のものを飲み込んだ。毒ではないだろうがとにかく不味かった。私は吐き気が増すかと思ったが、日に二度飲まされるその緑色のヘドロのようなものは意外なほど私の病状を改善させた。

 

 骨の痛みが和らいだ。何日になるのかは分からないが、熱でまともに起き上がれないだけで、身体中が破裂しそうな激痛から次第に解放されていった。私はようやく自分と自分の置かれた状況を観察するだけの余裕を取り戻し始めた。その日に目を開けた時はまだ日が出たばかりの薄明い時間で、看護人はゴリゴリと臼と杵で何かの葉をすり潰していた。狭い小屋の唯一の灯りである出入り口のそばであぐらをかき、蚊帳のこちら側で私には横顔しか見えない。この土地の住民に特有のとかげを思わせる風貌だが彼には頬に大きな赤い痣があった。彼は私よりも小柄でほっそりとしているがその砂色の体が私の筋肉の盛り上がった褐色の巨体よりもよほど力を秘めていることはこの数日で嫌になるほどわかっていた。彼らの遺伝的なものなのかもしれないし、彼自身の鍛錬によるものなのかもしれない。私はごりごりとすり潰されていく葉の砕ける音を聴きながらまどろみの中へ戻っていった。

 

 彼は私に粥のようなものを食べさせた。痛みは去ったものの熱はしぶとく残り、まともに匙も握れない私は彼の差し出す匙から雛鳥のように給餌を受けた。何日も食べていない胃にほんのりと甘い液体の食事はありがたかった。彼は無口で我慢強い看護者だった。しかし同時に容赦もなかった。ある時、彼は私の包まっているブランケットを剥ぎ取り、逃げようとする私の体の汗と垢をごしごしと手ぬぐいで拭き取り、ひんやりとした薄荷のような匂いのするものを大きな手のひらで全身に塗り込んでいった。私には抵抗する権利はなく、またしたたか心地よいものでもあったため、ブランケットを戻される頃には従順になされるがままになっていた。彼は私の知る限りほとんどずっと小屋で過ごしていた。私の看護をする以外にも様々な手作業を持ち込んでいた。乾いたイネ科の植物の茎らしきものを捌いてまとめたり、靴の破れを繕ったり、最も多かったのは澱粉を練ったり穀物脱穀するなど食に関する作業だった。彼は上半身は素肌のまま白い布の簡素なズボンを履いているだけだったので私はジャングルの中の小さな集落で生活する農民の一人なのだろうと検討をつけていた。蒸し暑く、飛び回る虫たちは不快で、ジャングルの濃緑は目に痛いが、彼のそばは心地よく私はしばし戦場にいることを忘れ永遠に留まることができれば良いと思うようになった。

 

 この土地は数年前から内戦状態に置かれている。ひとつの種族がそれぞれ異なる文化的習慣を持ち、民族集団に分かれ、南部は王族による王政を支持し、北部では共和政の自治区が立ち上がり国家としての統一を図っている。どちらもそのあり方を譲ることはなく、かねてより王族との同盟関係にあった私の星からも兵士が派遣され、私は共和政国家の樹立を目指すゲリラ軍をひとりでも多く殺害するためこのジャングルに送り込まれている。私は政治家ではないのでそれ以上のことは知らず、知っているべきことは敵と見なす存在の撃ち方と生き残り方だけである。それでもしばしば考えざるを得ない。私は何のために他の土地に来て、慣れない気候に汗を流し、何の恨みもない他の種族を殺戮するのかと。

 

 私が匙を握れるようになると、彼は徐々に固形物を与えるようになった。小さな果物が渡された時には歓喜した。咀嚼することに自分がどれほど飢えていたのかその時初めて気づいた。彼は私の様子を注意深く見ていた。私が嘔吐も下痢もしないと分かると、粥から野菜の香辛料煮やヤシの澱粉のようなものへと変化した。緑色のどろどろとした液体も飲まされなくなった。私は体力をすっかり失ってはいたものの高熱の前後不覚な状態からは回復しかけていた。

 

 汗ばむ午睡から目を覚ますと、彼は戸口に寄りかかりタバコを巻いていた。屈み込んで指先に神経を集中させ、乾燥した葉を小さな薄い紙の中にきっちりと巻き込んでいる。やがて端をちろりと舌で舐めて張り合わせるとマッチで火をつけ深く吸い込んで吐き出した。私のこれまで嗅いだことのない煙の匂いが濡れた土の香りと混ざりあっていた。私は半身を起こして彼を見つめた。引き締まった上半身は光のコントラストの中で美しかった。「一服くれるか」私は尋ねた。彼は振り向いたが彼と私の間に共通する言語があるとは思えなかったので身振りで示した。彼はのしのしと私の寝台まで大股で歩いて来ると、自分の指に挟んだタバコを私の唇に当てた。大きく吸い込むと、重く甘い味が肺を焦がした。私はしばし咳き込んだ。煙草の葉ではない、なにかこの土地特有の植物を巻いているに違いない。膝をついた彼を見上げると、片方の口の端をちらりと歪めていた。初めて見る彼の微笑みだった。彼は夕方の赤い日で黄金に輝く大きな瞳で私を見つめたまま自分でももう一息タバコを吸い込んだ。「美味いな」私は彼と目を合わせたまま呟いた。「もう少しくれ」彼の手を引き寄せて、私は彼の指先をもう一度私の唇に当てた。

 

 私の体にしぶとく残っていた熱っぽさが去ったと同時に彼は小屋へ訪れなくなった。これまで私の目の覚めている時に彼の姿がなかったことがないので不思議に思ったが、半日経っても彼は現れず、代わりに小屋の隅の暗がりに私のすっかり忘れていた所有物が置かれていた。肌着やユニフォームは洗われて泥汚れを落とされていた。ナイフも、銃も、その他の携帯品もそのままにあった。水入れには新しい水が詰められていた。そのメッセージの伝えるところは明らかだった。私はいよいよオアシスを出て現実に戻る時が来たのだと思った。私は服を着てヘルメットを被り銃を背負った。出て行けと背を押されているかのように気の進まないまま外に足を踏み出した。しかし何日も留まり介抱されたにも関わらず黙って立ち去るのは気が引けた。いやそれは言い訳に過ぎず、なにか自分のいた痕跡と出ていくことを惜しむ気持ちを彼に残したかった。書き置きをするような紙も、ましてや言葉も持ち合わせていなかった。私は胸ポケットに安物の紙巻きタバコを入れていたのを思い出した。開けたばかりのまだ新しいそれを一箱、蚊帳の内側に置いてジャングルの中へと入っていった。

 

 自分がどこにいるのかも分からないところから一昼夜彷徨っただけで別の部隊に合流できたことは奇跡としか言いようがなかった。私は自分の部隊がゲリラ兵の銃撃を受けて散り散りになり、地元民に助けられたことを淡々と報告した。私は再編され新たな部隊に吸収された。味方の多くが深い森の中で迷い待ち伏せに遭い数を減らしていた。私は再び戦闘と殺戮の只中へと戻ることになった。

 

 その朝は珍しく気温が下がったものの湿った地面や川の温度は高く霧が出ていた。深く暗い緑が重なり合うジャングルに数百メートル先の見通しも立たないような白いヴェールが立ち込め、私たちは途方に暮れた。ひとまず予定通り私のいる部隊は周囲の偵察へと送り込まれたが、苔が足音を吸い込み、鳥の声はしなかった。唐突に風が鳴り、私の隣の兵士が倒れた。伏せろと誰かが叫んだ。私はじめついた地面に身を屈め、発砲音のする方にライフルを向けて照準を合わせた。北側の兵士たちが数人、こちらに向けて銃を構えていた。顔を見ただけではみな同じようなトカゲに似た砂色の肌をしていて見分けがつかないが、南側の国軍のように揃いの制服ではなく、それぞれが森にまぎれるような黒や深緑の衣服を身につけていた。そのうちのひとりが、私にピッタリと銃口を向けていた。私は思わずライフルから顔を離して身を起こした。その人物には片頬に赤い痣があった。私は目を凝らした。もう二度と会えないかと思っていた。私は場に不似合いな喜びが胸に広がるのを感じ微笑んだ。彼の銃から放たれた銃弾は私のヘルメットを吹き飛ばし、私はぬかるむ地面に仰向けに倒れこんだ。

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