toripiyotan

何回もおなじこと喋る

Based on Lies[ショートストーリー]

希死念慮の描写があります

 

二歩。

(間も無く列車が参ります)

二歩でいい。

(白線の内側まで下がってお待ちください)

二歩踏み出せば全て終わる。

(間も無く列車が参ります)

何時間経った?いつまでぐずぐずしているんだ。たった二歩を踏み出せば僕は。

二歩でいい。

二歩。

「タカちゃんじゃね!?」

夜の駅のホームで突然肩を掴まれた。

「ほら!中学一緒だったじゃん!?おぼえてない?吉田だよ!うわー久しぶりめっちゃ嬉しい!」

ヨシダ、ヨシダ、だれかそんな知り合いいただろうか?思い出せない。最近はほとんどのことが思い出せないけれど、中学時代となると煙のまた向こう側でちょっとやそっとでは呼び出せない。

「吉田…くん?」

ヨシダと名乗った同い年くらいの栗色の髪にジーンズ姿の男はニコッと笑った。

「タカちゃん全然変わってないもんなーそれにほらそれ」

彼が指差したぼくの胸元に僕も視線を落とすとそこには下げっぱなしの社員証があった。会社を出る時に外し忘れたのだ。そこには高山とでかでかと印刷してある。僕は焦って首から社員証を外してカバンに押し込んだ。

「まじで久しぶりじゃん。タカちゃん同窓会とか行ってる?うわーなつかしい!」

ヨシダの明るい口調にくらくらする。待っていた列車は既に通過してしまった。

「あ…いや…てかごめん、あんま学生時代のこととか覚えてなくて…」

僕は正直に言う。ヨシダは大袈裟に頷いてみせる。

「わかるーおれももう顔と名前とか一致しないしなー年なんかなー。けどタカちゃんのことはなんか急にビビッと思い出したんよね」

にこにこと言われてすっかり毒気を抜かれて僕はふらふらとベンチに腰掛けた。僕は自殺しようとしていたのだ。それなのにこの中学の同級生と名乗る男は僕と話したがっている様子で当然のようについてきて隣に腰掛けた。どうなっているんだろう。

「ええと、ヨシダくん…は…最近どうしてるの?仕事とか?」

僕はこの急な状況をどうにか切り抜けようととにかく浮かんだことを口にした。

「おれ?フリーターだよ。フリーターって今でも言う?なんかあんま仕事続かなくてさーバイトあれこれやってる。居酒屋とか。タカちゃんどうしてんの?めっちゃ決まってんじゃん」

ヨシダは僕のスーツ姿を指し示しながら言う。

「あー…一応就職して…でもまあ色々…忙しいし…」

あまり話すと自分の中の何かが爆発して元に戻らなくなりそうで必死に抑えながら僕は自分の生活について当たり障りのない話をする。ヨシダはいちいち感心したように頷いている。

「あ!もう電車くるんじゃね?!なあまた喋ろ!連絡先おしえるから携帯貸して!」

ヨシダは僕のスマートフォンをもぎ取ると勝手に自分の電話番号を登録した。『吉田康平』それが彼の名前だった。

「連絡するからさ!飯食い行ったりしてまたゆっくり喋ろ!」

ヨシダに見送られて僕は轢かれる予定だった列車に乗り込み、扉越しに手を振り合った。

吊り革に捕まって揺られながら呆然と、携帯に登録された新しい名前を何度も見返す。僕は訂正しなかった。僕は彼のタカちゃんではない。中学は不登校だったから友達なんかいない。僕は彼に嘘をつき、そして訂正しなかった。

 

おかしな成り行きで僕は一日を生き延びてしまった。そうしてまた眠れない夜が明け、作業的に服を着て会社に向かう。朝の雑踏の中では意識を失ったように波に押されることで生や死や選択や生活さえも自分の中から締め出してただ従順な二足歩行の生き物になる。混み合った電車の前ではあの二歩を踏み出すことさえできない。どれだけのひとのその日を止めてしまうかと想像するとぞっとする。人身事故のアナウンスに見知らぬ人の舌打ちやため息が聞こえた気がしてそれらに耳を塞ぐ。夜まで耐えよう。どうやって辿り着いたのか分からない会社のどうやって辿り着いたか分からないデスクでどうしてできるのか分からない作業を黙々とこなしていく。電話が鳴る。電話をとる。自分のどこか別の場所から声が出ている。パソコンに文書が打ち込まれていく。ひとつも理解できない。しかし作業は進んでいく。誰も気づかない。誰も何も言わない。昼が来ても食欲はなく缶コーヒーを飲んで仕事を続ける。就業時間が来ても誰も帰らず煌々と照りつける蛍光灯の下で誰もが黙々と作業を続ける。夕日が落ちて空が藍に沈んでいくにつれひとり、またひとりと会釈しながら同僚たちがいなくなる。最後のひとりになる前にノートパソコンの電源を落としそそくさと会社を出る。歓楽街のネオンに照らされたアスファルトを駅に向かい踏み締める。そうしてまた昨夜の繰り返し。僕は二歩をためらい、ホームにじっと立ち尽くす。

 

「またタカちゃんじゃん!」

今夜もヨシダが肩を叩いてきた。スーツのジャケット越しに肩に手の重さが伝わって、そういえば久しぶりに他人に触られたなと思った。ヨシダは電車が来るまでどうでもいい話をしてきた。中学時代の話は二度と出なかった。今日も暑いとか新しいコンビニのジュースの話とか他愛無いことを一通り喋ると僕が電車に乗るのを見送って手を振る。自分は逆方向だと言うがヨシダがどこに住んでいるのかは知らない。僕はそれを疑問に思うことも尋ねるという発想も浮かばなかった。僕の死はその日も翌日も翌々日も予期せぬヨシダとの遭遇によって阻止されてしまった。僕の機械的な一日はそれまで夜の電車の時間に向けて収縮していたはずが、ヨシダの登場によってそこだけ彩色されるようになっていた。

 

夜の駅での何度目かの邂逅を繰り返したあと、ヨシダからメッセージが来た。

『今日ヒマ?仕事が終わったら飲み行こう』

僕はずいぶん長いこと誰かと食事を共にしていないことを思い出した。ヨシダは僕と会ってなにが楽しいのだろう。そもそも僕はヨシダの考えているタカちゃんでさえないのに。僕は昼休憩の間中迷った。ぼんやり靄がかった頭が断るべきだと言ってくる。僕には話すこともなく面白みもなく草臥れた顔をして今日をやり過ごすだけでいっぱいいっぱいの機械なのだから。しかし灰色の会社の灰色の昼間のなかでヨシダのメッセージだけが小さな光を放っていた。僕はそれに縋ってしまった。

『いいよ』

僕はメッセージを返して午後の仕事に取り掛かった。

 

ヨシダの指定した狭い居酒屋は入ったことのない路地にぎゅうぎゅうと並んだ店のひとつで、週末で混み合う店の隅のほうに黒いキャップを目深にかぶるヨシダの姿は店員に案内されるまで気づかないほどその場に紛れてしまっていた。

「一週間お疲れ!」

それでも顔を上げてそう言ったヨシダはいつものにこにことした愛嬌のある顔をしていた。僕は席に座って生ビールを頼んだ。それから枝豆と串盛り。ヨシダは先にグラスを手にしていた。何を飲んでいるのか聞いたら焼酎だと言った。それからいつものように饒舌に喋った。天気のこと、スポーツのこと、面白かった漫画のこと、芸能人のスキャンダルのこと、美味かった飲食店のこと、肩こりと眼精疲労のこと。お世辞にも世間話が得意とは言えない僕は中途半端な相槌とさかんに質問を挟んで話を引き出してくるヨシダのおかげでこの数年で最もよく話し、笑った。楽しいと感じたのは久しぶりだった。トイレに行き戻って来るとヨシダが頼んでおいてくれた二杯目の生ビールを飲んだ。

「タカちゃんて昔から良いやつだよな」

ヨシダが唐突に過去のことに触れたのでどきりとした。そうして自分がヨシダを騙して他人になりすましたまま付き合いを続けていたことを思い出す。アルコールの作用と重なり心臓がドクドクと言っていた。「そうかな」僕はどうとでもとれるような返事をジョッキの中にもごもご言ってまた飲んだ。誤魔化すべきか白状すべきか分からない。良心は正直に言えと急き立ててくるが、もう片方がこのまま彼のタカちゃんでいてもいいのではないかと囁く。僕はこれを必要としている。この一週間、僕をあの二歩から遠ざけてくれたこの名付けられない見知らぬ虚偽の上の友人関係が、生き延びるためにどうしても必要なのだ。

「でもさ、たとえば『こいつもう殺して~』みたいなこと思ったりせんの?」

ヨシダはあくまで軽い調子で朗らかに尋ねた。僕は話題が過去から逸れたことにほっとしてその冗談めかした問いに答える。

「いや、イライラすることはあってもさすがにそれはないかな」

そしてまたぐいぐいとビールを煽って付け加える。今日はやけにアルコールが回るのが早くて頭の中がふわふわとしてきた。

「僕はどっちかっていうと、もう死にて~っておもっちゃうから」

ついぽろりと白状してしまう。誰にも言ったことのないことなのに。

「そっかー、おれと逆だなー」

ヨシダが透明のグラスに口をつける。それから銀杏をもぐもぐと食べている。けれど目の前が回っていて僕にはそれらがぐねりと歪んだミラーハウスの像のように見える。

「関わったやつぜんぶ道連れにしてやろーって思っちゃう」

ヨシダがそう言うのを聞いた後のことは覚えていない。

 

玄関のチャイムとドアをどんどん叩く音で目を覚ました。自分のアパートの部屋で目を覚ました僕は自分の状況を把握できず周囲を見回した。しわくちゃのスーツを着たまま自分の散らかった部屋の床から身を起こし、自分の腕時計を見ると二時を指している。カーテン越しの太陽光からして午後に間違いないだろう。そうだ、飲みに行ったんだ。でもそのあとのことが思い出せない。酔い潰れてしまったのだろうか。自分を見下ろすとシャツに乾いた赤黒いシミがついていた。「うわ」鼻血でも出してしまったのかと咄嗟に顔を触るが濡れた感触はない。チャイムとドアを叩く音は続いている。僕は先にそちらを処理することにしてふらふらとドアに向かった。

「高山陽一さんですか」

玄関を開けると知らない人達が立っていた。手帳のようなものを見せている。起きたばかりの目に昼の光がぎらぎら眩しすぎる。僕は思わず顔をしかめ目を細めた。

「はい、そうですけど……」

「吉田康平さんとはお知り合いですね」

疑問形ではなく断定系で尋ねられ違和感を抱きながらも僕は正直に頷いた。

「なにかあったんですか」

「お話を伺いたいのでご同行をお願いします」

質問をかわされて僕は理解できずもう一度尋ねた。

「どうしてですか、なにがあったんですか」

「亡くなりました」

頭の中が真っ白になり僕は数秒固まった。そんなはずはないだろう。なにかの間違いだ。だって

「昨日一緒に飲んだのに」

「昨日一緒にいた?」

尋ね返されて混乱が加速した。あれは本当に昨日のことだったのか、不安になってポケットを探りスマフォを取り出して日付を確認する。それからそのまま電話をかける。呼び出し音が鳴らない。録音テープがお掛けになった電話はつかわれていないと言う。どういう意味だろう。昨日のことを思い出そうとしても居酒屋の薄汚れた壁と枝豆のことしか思い出せない。日の光が眩し過ぎる。全てが目に突き刺さるほど明るく鮮やかで暴力的だ。

「すみません、吉田康平って言いましたか?」

混乱した僕に知らない人のひとりが写真を取り出して見せた。運転免許証の証明写真を引き伸ばしたような写真だった。黒髪で眉の濃い見知らぬ男性だった。

「いや、ちがう、彼はヨシダじゃない」

僕はにこにこしたヨシダの顔を思い起こした。髪の色が違うだけではない。まったくの別人だ。

「亡くなった吉田康平さんの自宅からあなたの財布が見つかっています。ご同行をお願いします」

僕はポケットを探った。部屋の鍵と携帯以外なにもない。部屋を振り返っても通勤カバンも見当たらない。それから注目されている自分のシャツのシミを見下ろした。僕はようやく自分が完全な袋小路に押し込まれていることに気づいた。辛抱強い警察官たちの顔を呆けた気持ちで見つめ、玄関の敷居から外へ足を踏み出した。

巨人と旅人[ショートストーリー]

※注意  魚を獲って食べる描写があります

 

 

 旅人は背負ってきた荷物を下ろし、集めた小枝を小さな山にして火を熾した。夏にはまだ遠く、日が落ちると冷気が体温を奪っていく。旅人は食事の支度をする前にもう少し小枝を集めるため周囲を歩いた。そこは森のなかの打ち捨てられた集落跡のようで、生い茂る緑のなかに瓦礫や建物の基礎のようなものが見えた。旅人はそれらの間を歩き回りながらよく乾いた枝や枯れ葉を粗末な麻袋に集めていった。屋根の落ちた礼拝堂と思われる建物に行き当たった。外れた扉から旅人は足を踏み入れた。床から芽を出したナラの若木が崩れた天井の代わりの傘となり、薄暗い隅にはシダ類がふさふさと茂っていた。太陽は西の地平線に隠れ月もまだ出ていない時間帯なのでガラスの割れた大きな窓からは弱々しく頼りない光しか入らず、小さな聖人たちの像を見分けることは難しかった。旅人は祭壇に近寄った。ずいぶん長いこと礼拝堂に入ることはなかった。朽ち果てた場所でも神に声は届くのだろうか。旅人は麻袋を置き跪こうとした。祭壇の後ろに生き物の気配を感じた。旅人は足音を忍ばせ、息を殺してそっと祭壇を回った。右手は腰のナイフをいつでも抜けるように柄を握りしめていた。聖人に見下ろされ瓦礫とシダの影に隠れていたのは顔と両目のある人だった。それも旅人よりはるかに大きな巨人だった。体を折りたたんで旅人を怯えた光る目で見返していた。数秒見つめあった。旅人は足音を忍ばせそっと後ずさると、麻袋を担いで礼拝堂を出た。

 

 簡素な食事を済ませ旅人が焚き火に小枝を放り入れていると何かが近寄ってきた。火の光の届かない遠くで止まり、じっとこちらを見ていた。枝がぱちぱちと燃え崩れ火が一瞬大きくなるたび、光の輪の外にいるそれの大きな目にきらりと反射した。旅人はわざと無視した。さっきの巨人だろうことはわかっていたが、それ以上近づいてくる様子はなく危険は感じなかった。むしろ人馴れしていないが興味津々の野生の動物のようで、もしも旅人が動けばたちまち逃げ出したことだろう。旅人は無視したまま毛布で体をしっかり包んで横になった。朝焼けのなかで目を覚ますと、昨夜のそこに巨人はもういなかった。旅人は火の後にしっかりと土をかけ、荷物を背負って出発した。

 

 何百メートルもの距離をあけて、巨人は旅人の後をついてきた。それに気づいたのは礼拝堂を離れて数日後の夜だった。それは再び、光の届かない木々に遮られた場所から火を焚く旅人を見ていた。旅人は努めてそちらを見ないようにいつも通り食べ、引き裂いた服を繕い、少しだけパイプを吸うと毛布にしっかり身を包んで眠った。その翌朝も、巨人はそこにいなかった。しかし鹿の寝床の後のように、木陰に大きな窪みが残っていた。

 

 巨人は少しずつ旅人に馴れていくようだった。昼間の旅程で気配を感じることなどないほど遠かったのが、数週間のうちに遠くにその巨大なシルエットを確認できるほどの距離をついてくるようになった。背丈は三メートルに近く、横幅もワイン作りの樽より広かった。動作は素早くはなく、背は曲がっていてゆっくりと足を運んでいる姿は旅人に象を思わせた。近くなっても、旅人はそちらを見なかった。旅人にとっても道連れは久しぶりのことで心強かった。話のできる相手ならなお嬉しいが、言葉の通じる相手は危険でもあった。旅人は巨人がなんなのか知らなかった。そういうものがいるというのは聞いたことがあったが、ただの大きな人間にしてはあまりに違いすぎるので、やはり別の生き物なのだろう。言葉や習慣も違うのだろうか、こんなところでひとりでいるが仲間のようなものはないのだろうか。旅人は遠くをゆっくりついてくる巨人を背中に感じながら春の森をゆっくりと進んでいった。

 

 唐突に川に突き当たった。その日は朝から蒸し暑く、山から雪解け水を運ぶ冷たい流れに旅人は心が浮き立った。服をすべて脱ぎ、体を浸すとぞくぞくと鳥肌が立った。それを太陽の熱がじんわり温める。河辺では足の長い鳥たちが水面を凝視して水の中の昼食を狙っている。旅人の足元を小魚の群れが大急ぎで掠め通っていく。旅人は体をごしごしと擦り垢を落とし、着ていた服を茶色い汚れが出なくなるまでじゃぶじゃぶと洗ってよく絞り、熱くなっている大きな岩の上に広げた。ふと数十メートル川下を見ると、巨人も川に入っていた。巨人も旅人に倣ったように身につけていた少ない衣服を脱ぎ、真裸で水に潜ったり出たりしていた。水から顔を出してぶるぶると犬のように水を弾き飛ばす巨人がこちらを見た気がして旅人はふっと微笑んだ。見えているわけなどないが、旅人は巨人と自分がいま同じ温かな太陽の下で同じ冷たい流れに喜び合う生き物同士の不思議な連帯の中にいると感じた。

 

 その夜、旅人が荷を下ろし焚きつけ用の枝を集めて周って戻ると、4匹のマスが並べて置かれていた。旅人はまず火を熾し、それからマスにとりかかった。表面の細かい鱗をナイフで擦り落とし、ふっくらと白い腹から顎まで浅い切り込みを入れ、指を突っ込んで内臓とエラを引きずり出す。土を掘って4匹分の魚の内臓を祈りを捧げながら土に埋め、手を拭って魚を枝に突き刺すと火にかけた。しばらくするとパチパチと皮に焦げ目がつき脂の匂いが漂い始めた。「おい」旅人は暗い森に向かって声をかけた。「いるだろう」返事は無いが見られていることは感じられた。旅人は焚き火の明かりの境界あたりに大きめの葉を何枚か皿のように敷いて焼き上がったマスを2匹乗せた。「お前が獲ったんだろう。ありがたく半分いただくよ」それから少し考えて、昼にもいだ野生の小さなリンゴもひとつ置いた。旅人は火のそばに戻り、自分の魚にかぶりついた。生き物を食べるのは久しぶりだった。脂が旅人の口内を焼いた。しばらくすると暗闇から巨人が現れ、置かれたマスを食べた。りんごも食べた。旅人はそれを目の端で見て、不思議な満足を覚えた。おそらくそれは巨人のほうも同じなのだろう。巨人はその日初めて夜明けまでその場で寝ていた。

 

 それからも巨人は旅人と何十メートルかの距離を置いてついてきた。しかし夜になると、こっそり色々なものを置いていった。たくさんの木の実や果物、あるいは食用の花や葉などを。旅人は自分の食糧とそれらを合わせて巨人と分けた。巨人はけして旅人のそばに寄ろうとはしなかった。それでも離れようともしなかった。旅人は次第に話すようになった。聞こえているのかも理解されているのかもわからないが、あまりに長くひとりでいたせいで話さずにはいられなかった。言葉に返事はなかったが、注意を向けられていると感じそれだけで心に巻きついて締め上げてくる蛸のような暗い孤独から解放されるようだった。「お前には分からないだろうが」と旅人は言った。「私の村は何ヶ月もの大雨と何十もの雷で焼けて沈んだ。私たちは助けを求めて散り散りになったが、私たちは呪われていると噂されてどこの街も受け入れてはくれなかった。私たちの髪が黒いせいですぐに見分けがついたから、髪を染めて生まれ育ちを隠した者たちもいる。しかし素性がばれると鞭打たれ石を投げられ追い出された。私たちは隠れていなければならない。さもなくば噂も追いつけないほど遠くへ行かなければ。故郷を無くしたのはこちらだというのに」旅人はパイプを深く吸い、吐いて、毛布を巻き付けて眠った。

 

 少しずつ近づくようになり、旅人は巨人をよく観察できるようになった。その体の大きさの他に目を引いたのは上半身を覆う密になった体毛で、その特徴は明らかに人間と違っていることを物語っていた。しかしそれでも顔立ちや体に対する手足の比率は人間のそれとあまり変わらず、きっと遠い先祖のどこかでは繋がっているのだろうと思われた。次に目についたのは両足の重そうな古い足枷だった。鎖はないので引きちぎったのだろうが、頑丈な鉄の輪はどうすることもできなかったのだろう。ある夜、旅人は背負って歩いている荷物の底からやすりを探し出して巨人のいるほうへ放った。身振りで足の輪を差して削る真似をして見せる。「弱いところを狙って削るんだ」それから不安になった。人間の言葉がわかるのか、人間のように道具を使う知能があるのか。巨人はおずおずと拾い上げた。暗い森にガリガリと金物の削れる音が響き始めた。「すぐには外れない」旅人は忠告した。「毎日少しずつやればいつか取れる」なんの確証もなかったが、断言するように言った。

 

 それから巨人は夜の焚き火にもう少しだけ寄るようになった。足枷を削るには明かりが必要だからだろう。食事を終えて旅人がパイプを吹かしている間、ザリザリという懸命な音が森に広がる。それを聴きながら旅人は独り言のように話をしたり昔歌った唄を口ずさんだりした。巨人はけして目は向けないが、旅人が歌うと手を止めた。やすりの音で邪魔をしないためなのか歌をよく聴きたかったのかはわからない。歌い終えるとまた削った。「お前はおれの言葉がわかるか?」旅人が不意に尋ねた。巨人は手をとめて頷いた。そして初めて口を開いた。重いがらがらとした声で答えた。「訓練された、指示がわかるようになるため」それからまた削った。「サーカスにいたのか」旅人の質問に巨人は手も止めず顔も上げず、しかし頷きで返事をした。やがて旅人はパイプをきれいに掃除すると毛布を巻き付けて眠った。

 

 やがて森はまた川に行き当たった。今度はもう少し上流の、川幅が狭く流れの荒い川だった。旅人は遠く後ろを着いてくる巨人を振り返って大声で言った。「この川を渡っていくぞ」旅人は昼間初めて巨人に話しかけた。それまで巨人は旅人の足跡をただ離れて着いてくるだけの存在だったが、いつの間にか、少なくとも旅人にとっては共に森を行く道連れのようになっていた。旅人は自分の巨人に対する気持ちの変化に気づきおかしなものだと笑った。服を脱いで荷物と共に抱え上げ、できるだけ浅いところを選び冷たい川を渡りきると、岸で適当な枝で釣り竿を作った。土を掘ってよく太った幼虫を摘み上げて針にかけて川の岩陰に垂らしていると巨人が追いついて川を渡ってきた。離れたところから旅人が魚を釣り上げる様子を見て、巨人もそろそろと腰を屈めて魚を捕まえようと澄んだ水面に目を凝らした。熊のように狩るのかと見ていた旅人は、巨人がごくゆっくりと少しずつ動きやさしく水の中に手を入れてまるで蝶でも捕まえるような繊細さで魚を捕らえる様子に驚いた。「そのまま食べたいんでなけりゃ、これに入れといてくれ」旅人は麻袋を巨人の方に放った。「また焼いてやるよ」巨人はびちびち暴れるマスをしっかりとしかし潰さないように加減して掴んでいた。麻袋のところまでゆっくり近づくと魚を入れ、口紐を閉じたあと水の浅い場所に袋を浸した。呼吸ができず暴れていた魚は水に浸けられ落ち着きを取り戻し静かになった。旅人は、どうせ後には殺して食べるだろうが、とは言わなかった。その日はあわせて六匹のマスを得た。しばらく不足した栄養を補うに十分な量だった。旅人は巨人の意図を汲んでできるだけ速やかに魚を締めた。刃幅の細いナイフで頭部の神経を断ち切り、意識がないのを確認してその場で腹を開いて内臓とエラを引き摺り出した。鳥たちが集まってきたので急いで六匹とも処理をし、祈りを捧げて岩の上に置いた。旅人が離れるとあっという間に嘴が集まり血の跡だけを残して飛び立っていった。

 

 「お前は一体どこに行くつもりなんだ?」ある夜、旅人が焚き火の向こう側にいる巨人に尋ねた。巨人はザリザリと足枷を削る手を止めて「どこにも」と答えた。「それじゃお前はどこから来たんだ」という質問にもまた「どこにも」と答えた。旅人はパイプの煙を吐き出した。季節は夏に向かっていた。明け方に毛布の中でがたがたと震えて目覚めることもなくなり、夜空の星は位置が変わった。昼間は汗ばむような陽気の日が増え、森の中は四つ足の動物たちの気配が増えていた。いい季節だった。旅人はこの無口な話し相手ができたことでより周囲を楽しむようになっていた。あちこちで実る果物を分け合う相手がいることも久しぶりだった。相変わらず巨人は旅人に近寄ろうとしないが、それでもいつもついてきた。お互いに気やすくなっていた。ずいぶん間が開いてから巨人の重い声がもう一度聞こえた。やすりの音がしばらく前から止まっていたことに旅人は気づいていなかった。「おれはずっとサーカスの檻の中にいた。芸を仕込まれた。おれは鞭打たれた。見にくる人間たちはおれを見て笑ったり恐れたりした。おれは言われた通りにした。おれは怖かった。生まれたときからずっとそうだった。おれは新しい芸をさせられた。生きたうさぎを引き裂けと言われた。頭と足を掴んで引きちぎれと言われた。お客はもうおれが出てきても丸太を折っても驚かないと言われた。おれは嫌だと言った。おれは鞭打たれた。焼けた炭を押し当てられた。おれはパニックになって暴れた。おれはそんなつもりはなかった。おれは鎖をちぎって暴れた。おれは人間をふみつぶした。人間は三人死んだ。おれは撃たれる前に逃げ出した。おれには行く先はない。戻る場所もない」旅人は巨人がそれほど多くの言葉を発するのを初めて聞いた。巨人は明らかに人間相応の知能があり感情を持っているようだった。簡単な言い回しで発声にも癖があるが、人間の言語を理解して使いこなしていた。旅人は巨人全般についてよく知るわけではないが、それでも世間で言われる彼らの性質が的外れであることを理解した。「お前たちの仲間はどこかにいないのか」旅人が尋ねると巨人は首を振った。「わからない。しらない。もし会えても、おれはちがう。どんな言葉をつかうかわからない。どんなふうに振る舞うかもわからない。人間のなかで生きていたから。でも人間のなかにも戻れない。おれは違うから」巨人はしばらく考えている様子で無言だった。それから「それに、ひとを殺したから」と付け加えてまたやすりをかけ始めた。まるでそれを外せばなにかが開けると願いをかけているかのように真剣に少しずつ解放を求めて削った。しかし何からの?

 旅人は立ち上がり焚き火を回り込んで巨人に近寄った。巨人はぎょっとして身を固くし小さく縮こまった。目を見開いて凝視している。祭壇の下から見上げていた時のように。旅人は屈んだ。手を伸ばして膝を抱えて縮こまる巨人の肘に触れた。指先がようやくかすめるほどの距離だったが、ふたりにとってこの数週間にありえないほどの近さだった。「お前は自分の命と尊厳のために戦った」旅人は付け加えた。「お前は悪くない」旅人は悪いのは自分だと感じた。自分たち、と言うべきだろうか。罪悪感が押し寄せていた。しかし謝罪が旅人の気持ちを楽にする以上の意味があるようには思えなかった。旅人はサーカスの調教師ではない。サーカスを見物した人々でもない。それでも巨人から見れば同じ人間であり、その境遇を作った人間たちのひとりである。丁度、旅人の村人たちを受け入れず呪いの噂を優先した行く先々の街の者たちと同じように。それ以上は喉が詰まってなにも言えなかった。旅人は巨人から離れるとまた焚き火の向こう側へ戻って腰を下ろした。巨人はそれをじっと見つめたあとまた顔を下げて足枷に取り組んだ。ふたりは無言のまま鳴き交わす虫の声と鉄のガリガリと削れる音を聞き、しばらくして眠る支度をした。旅人は横になり巨人のほうへ声をかけた。「お前が暮らせる場所まで行こう」それから念のためというふうに付け加えた。「一緒に」炎が小さくなっているので巨人の姿は闇に紛れてしまっているがそれでもうずくまっているのだろうと見当をつけていたあたりから声が返ってきた。「あんたは良い人間だ」旅人はそんなことはないと言う代わりに空へ目を向けひときわ輝く星を数えながら言った。「名前を教えてくれ。明日でいいから」

 

権威主義と『ナワリヌイ』と『ラスト・ツァーリ ロマノフ家の終焉』

映画を見てきた。

ロシアの反体制派政治活動家アレクセイ・ナワリヌイの毒殺疑惑とプーチン大統領権威主義政治の関連を示唆するドキュメンタリー映画だった。

ナワリヌイのチラシ

映画としてとても面白かった。

わたしはロシアの政治に疎くてついていけるのか不安だったけれど大丈夫だった。問題の事件が起きる前からのナワリヌイ氏の政治活動とプーチン大統領を痛烈に批判するyoutube動画の映像などでどのような人物なのかが語られ、その後にシベリアからモスクワへ戻る飛行機の中で突然悶え緊急搬送されるナワリヌイ氏の実際の映像が流れる。その後はベルリンで治療を受けた彼と少数のチームと協力者が「誰は毒を盛られたのか、だとしたら誰が手を下し、それは誰の指示だったのか」を解き明かしていく。半分以上がその時その場で撮られたであろうiphoneや小型カメラでの映像なので今ここでそれが起きているのだというとてもスリリングな映画だった。

ドキュメンタリー映画も映画である以上は視点がありフレームでの切り取りと編集があるわけなのでここで語られる文脈のみを事実として飲み込み繰り返すことはできないけれど、それでもナワリヌイ氏が緊急搬送された際のワイドショーのような番組の一部で「密造酒を飲んでいたとかいう噂もある、ああいう輩はコカインをやっているんだろう、どうせ同性と乱行したりしてるんだ不健康なんだ」などと発言しているコメンテーターがいて、その政治的に自分と相反する死にかけの人物をフェイクやホモフォビアまで混じえて貶めることの許されるメディアの状況は何重にもこわいなと思った。

この毒殺未遂事件が政府による排除である証拠となりうる電話インタビューのシーンもそのまま使われていたのだけれど、あまりのことに、嘘であってほしいと、2000年代の世界でそんな愚かしいことが起きるはずがないと、ある種の陰謀論や憶測を出ない結末であってほしいと願っていたのでとても衝撃的だった。現代の権威主義に対抗する政治活動家は同時に探偵でもありジャーナリストでもある必要があるようだ。

この映画の中で扱いとしてはごく小さいけれどナワリヌイ氏がナショナリストのパレードに参加したりする(そこにはネオナチも参加していた)ことに対する追及のシーンもある。そこで「通常の社会では批判されるべきことだろうが、このような政治的状況下プーチン政権を倒すという目的のためには自分の政治的主義と相容れない相手にも訴える必要がある」ようなことを言っていて(とてもうろ覚えなので実際の映画を見て確認してほしい)最近ずっと政治的左派、リベラリズムの分断と弱体化について考えていたので賢いしとても政治家的なムーブだな気に入らないけどその状況下では必要だろうなと思った。

こういったドキュメンタリーを見る時、ついひとつひとつ日本(自分が暮らし住民票と国籍のある国)の状況の似ている部分を抽出してしまうし人間はそのようにして新しい問題を理解しやすく変換していくのだから悪いことではないのだけれど、それでもできるだけロシアの歴史的な文脈で(知識は乏しいながら)見るように努めた。Twitterでかつてフォローしていたロシア在住のなにかの研究者の方がロシアという国の家族意識のようなものについて語っていたけれど、この映画を通して感じる体制側(プーチン大統領側というだけではなくナワリヌイ氏チームが打破しようとしている保守的な壁)は巨大な家父長制であり、その家父長制が許してやっている範囲では大丈夫だがそれを超えた場合は厳しい罰が与えられる、といった印象を受けた。

そして日本と比べないようにと考えつつも、故安倍元首相の街頭演説で野次をとばし警察から排除されたという札幌の件を、ナワリヌイがドイツからモスクワへ帰国するのを待つ支持者たちを排除しようとする警察官の姿に重ねるなどしてしまった。

ロシアに帰国したナワリヌイ氏は空港でそのまま逮捕され、なんだかよくわからない罪で起訴され現在も服役中のようだ。(なんだかよくわからないというのは横領がどうのとBBCニュースなどに出ているのだけれど真偽がいまいちはっきりしない)

 

ところで冒頭でわたしは「ロシアの政治に疎い」と言ったが本当になにも知らなくて、ロシア帝国ソビエト連邦とロシア共和国とロシア連邦の違いについても成り立ちについてもなにも知らない。なので『ナワリヌイ』を見に行こうと思った日からNetflixで『ラスト・ツァーリ ロマノフ家の終焉』というロシア帝国最後の皇帝とその虐殺までを描いた再現ドラマと研究者インタビューで構成されているドキュメンタリー番組を数話ずつ見た。

全編英語なので(ロシア語ではないので)西欧諸国視点だろうし歴史的な事実を興味深く辿るみたいな感じだろうなと思ってたけど、社会の近代化と政治の民主化の動き、それについて行けず中世のような政治的判断を下し続けてしまう権威主義的な皇帝周辺、そしてかの悪名高き怪僧ラスプーチンなどなどなんというか盛り沢山で悲痛な話のはずなのに失礼ながら面白かった。

近代政治の授業で、王制が滅ぼされずにいることができた国というのは一般民衆へ少しずつ譲歩をしていった国で、民衆が強い組織化を果たして王制が無惨に倒されたのはかたくなに権力を固持しようとして普通選挙や議会民主制をゆるさなかった国であると習った(とても大雑把にわたしの理解の範囲での説明なので各自ちゃんと本を読むこと)のだけれど、このロシア帝国の崩壊と革命に伴う政治的混乱、暫定政権からレーニンによるソビエト連邦の樹立あたりはまさにあまりに後手後手な上に日露戦争や独露戦争を楽観視しすぎた皇帝政権へのしっぺ返しのように感じられた。

 

これだけロシアに関する映像作品を見て、現在のウクライナへのロシアの侵攻に思いを馳せないことはできない。テレビもラジオもない生活なのでなにかニュースに触れようとちょうど毎朝BBCやCNNのポッドキャストを聞くことを自分に課していた期間にウクライナへの軍事侵攻が始まったので、毎朝まさかね、まさかね、が高まっていって嘘でしょになったリアルタイムな感覚を思い出してしまう。あの時にも「こんなことが起きるのか」と胸に空洞が空いて信頼できるものなど無いかのような虚さを感じた。ちょうど、『ナワリヌイ』で毒物が使われた事実が関係者への電話で判明したシーンで感じたのと同じように。

この10年ほどを振り返っても日本でも少しずつ地道にその「まさかね」が重なっていて、怖さよりもずっともっと麻痺した虚さを感じてしまう。わたしやわたしたちが、自由や人権を、少なくとも人権というアイデアを訴える言論の自由を保持し続けるために必要なのはこの虚さとの戦いなのかもしれない。

アオとその両親が乗る自動車が事故を起こしたのは祖母宅から帰る山道でのことだった。 大きく広がる角を戴いた牡鹿を避けようと思わずハンドルを切った車は狭いセメント敷の道路を逸れ舗装のない木立のほうへと突っ込んでいった。幸い巨木がバンパーをひしゃげさせ、運転手を軽い鞭打ちにしただけに見えた。しかし後部座席に乗っていたアオにはそれまでの人生とこれからを分断するような変化をもたらした。アオは事故の瞬間に海を見たと言った。ビーチや海岸ではなく、潜ったこともない海底で魚やサメと共に強い急流に引き込まれていたと。両親はそれを見なかった。そして単なる事故のショックであろうとほとんど信じなかった。信じたのはいつも腕にしっかりと抱いているドットと名付けたジンベイザメのぬいぐるみだけだった。ドットに会話ができるわけではない。しかしアオはドットが信じていることを知っていた。なぜなら共にあの海の急流に乗っていたからだ。アオとドットは無二の親友となった。恐ろしい経験を、二度とない経験を共にした者同士で生まれる絆で結ばれた。

 

世界は少しずつ変化する。誰が変化させているのか、変化を敏感に感じ取れるのは誰なのか。それは社会的な死活問題となる。アオは鈍かった。ともに幼く素直でまごついていた旧友たちは、九つともなると自然と新たな社会を作り、新たなルールを課すようになった。大人の求めるルールとは別のルールであり、外の世界とは違うルール。学校の中の子どもたちだけの特別なルールでありそれは誰が牛耳るかによって有機的に変化していく。アオは乗り遅れた。というより理解できなかった。幼い頃から悪いと教えられたことが良いことになる。それを律儀に大人に報告すれば小突かれのけ者にされる。校則通りの服装で登校すれば笑われ、校則を破った靴下で登校すれば囁かれる。どこがまちがっているのかわからない。アオは幼なじみさえ遠くなったことを悲しんだ。しかしどうしようもない。新たなルールの奔流の中でアオはどうにか水面に顔を出し息を吸って吐いてくぐり抜けた。

 

帰宅しても自室でドットとすぐに眠りに落ちるアオを両親は心配した。特に父親はセラピストに会わせたがった。母親はあの年頃はそういうものだからと様子を見ようとした。あるいは変化を直視するのを避けた。もしも事故の後遺症であればどうしたらいいだろう。ハンドルを握っていたのは母親だった。病院では脳の検査まで頼み込んだが健康体であると診断された。元気がないわけではない、わがままになったわけでもない。なにか少し…違っている気がする。両親の勘を超えるものではなかったがふたりは気が気ではなかった。それでもアオが眠るに任せた。起きると以前の瞳の輝きが戻って見えたから。

 

アオはドットを抱いて眠った。そうすると毎回海に行けた。あの急流へ身を任せてどこまでも進む。ドットは現実のぬいぐるみの姿からおおきな胸鰭を広げた大人のジンベエザメの姿で隣にいた。透明のあるいは真っ暗な海を恐れもなく泳いでいく。ドットは横に長い口を開いて泳ぎながら食事をした。何をたべているのかアオには見えなかった。真似をして口を開けたが冷たい海水が喉から爪先まで突き抜ける感覚がしただけだった。ドットはちらりとアオに目を向けて笑った。アオも微笑んだ。彼らの間に言葉はなかったが心から満ち足りていた。最近では両親とも幼馴染とも級友たちとも感じられない強く温かい繋がりを感じられた。

 

一泊の課外学習に、アオはドットを置いて出られなかった。許可されてはいないが禁止もされていないのでダッフルバックの底にそっと忍ばせ、誰も見ていない間にこっそり布団に引き込んで眠った。たった一晩でも離れるのはつらく、自室ではないベッドでもドットを抱いていれば安心して眠れた。しかし目覚めるとどこにもジンベイザメはいなかった。アオは探した。布団をめくり、床をさぐり、どこかに蹴飛ばしていないかと部屋の隅にも目を向けた。すると窓際でにやにやと笑う級友たち数人が目に入った。ひとりは幼馴染のルイで、今年になってからはアオを無視してはこういうにやにや笑いをむけてくる。「ぬいぐるみもってくるなんてばかみたい」それはアオに聞かせたいけれどアオに向かって言っているわけではなかった。ただ自分達の言葉に自分達で笑って窓際を離れ、朝食のホールへ降りていった。アオは彼らのいた窓辺へ近づいて外を見た。窓から投げ捨てられたように前日の雨でぬかるんだ地面にドットが落ちていた。

 

アオは両親へ話さなかった。母親が洗ったドットは元と同じように離れた小さな目と横に大きく開いた間の抜けた顔でこちらを見ていた。しかしもう夢を見なかった。アオはドットを守れなかったことを後悔した。なぜドットとの間で感じられる繋がりを他の友人たちとは感じられないのか苦悶した。

 

理科の移動教室のため階段を登っていると、ルイとふたりの名前を知らない級友が踊り場でくすくす笑いをしていた。アオはルイとかつては互いの家を行き来し、自室で何時間も遊んで話して眠ったことを思い出した。このルールの奔流が起きる前まで、ほんの数年前まで、確かに互いのことを親友と言い、両親と同じかそれ以上の温かい繋がりを感じていたはずなのに。何かが変わってしまった。どうすれば取り戻せるのか。どうすればドットと行ったあの場所にルイとも行けるのだろうか。

 

アオはそのまま通り過ぎようとした。けれどふいにひらめきが貫いた。その喜びをそのまま声にした。「ルイちゃん」腕をつかむとルイはギョッとしてアオを見た。アオもルイも互いの目をこんな近さで見合うのは久しぶりのことだった。アオは身のうちに喜びの勇み足を感じた。そうだ、ドットの時と同じなのだ。同じことをもう一度すればいいのだ。共に危機的な状況を経験すれば。

 

アオはルイの腕を掴んだまま、階段の一番上からそのまま横ざまに身を投げた。

鬼となる[ショートストーリー]

※暗いお話です。ストーリーを決めずに即興で書きました。

 

 

砂の城を崩すように指が顔を壊した。私が触れたそばから彼の両頬はぼろぼろぼろ、とものの形をとどめず地面に落ちて堆積していった。彼は「あ。」と驚きの声をあげたかあげないかですっかり姿を消してしまったけれどそれを見ていた第三者がぎゃあああと甲高く悲鳴を上げた。恐ろしいのは私の方だ。私の手が私の愛する人を無にしたというのに私にはなんの実感もなくどうしたらいいのかわからない。昨日まではこんなことなかった。そのはずだ。私は人間だと思っていた。それなのに今は鬼と呼ばれている。

砂となった彼はどこにいったのだろう?死んでしまったのだろうか。それは通常の死と同じなのか。消滅か、それともあの砂つぶひとつひとつのなかで生きているのだろうか。日に何度も思い出す。指先の感覚が消えない。あたたかい頬を包んだらそこにあるはずの外界と体内を隔てているはずの皮膚の弾力がなくてそのまま私の指は肩透かしのように飲み込まれた。米袋の中の枡、酒樽の中の杓子、ぬかるみに飛び込む子の足のように。ずぶり、さらさら。わたしは愛する人を破壊した。どうしてなのか。どのようにしてなのか。考えてもわからないことが延々と湧いてあふれる。はじめは彼の所為なのかと思った。そう思いたかった。しかし私に縄をかけにきた者も同じ目に遭った。彼らは同じ場所に行ったのだろうか、それともそれぞれただ無に帰したのだろうか。

私は愛するものと多くの時間を過ごしたはずだ。それなのにもう「あ。」という崩れた顔しか思い出せない。私を責めているだろうか。私は奪ったのだろうか。命を?何を?

誰も安全に私を始末することなどできないとわかって、せめてどうにか目に入らない遠くへ追い出そうとした。最後には村中が泣きながら頼み込んだ。「おれたちのことをちっとでも考える良心がまだ残ってるんなら」と遠くから懇願された。私は彼らだったはずなのに今は一部ではなく異物だった。切り離して捨てるしかない。私は鬼と呼ばれてもまだ人間だと信じていたので彼らの頼みを受け入れて山の奥のずっと奥まで居住を移すことにした。誰も私への良心をちっとでも残してせめて時には顔を見に来ようなど言うものはなかった。私は唐突に降ってきた呪いの罰を受けなければならない。なぜなのかは考えてはいけない。

山をあちこち探し回って、どうにか雨風を凌げる場所を探しあてた。入口の狭い岩だらけの洞窟のような場所で私は苔の上に眠った。私はおそろしく孤独だった。彼の夢を何度も見た。彼はあの世に行けただろうか。それとも魂ごと崩れたのか。あるいはまだどこかで生きているのだろうか、彼として、あるいは別の何かとして。目が覚めた時が最も苦しかった。身を横たえている場所が村の自分の家ではなくどこともしれない山奥で二度と誰にも会えないのだという事実が、眠っている間に脱いでおいた鎧のように一挙に全身にのしかかってくる。私は泣いた。毎朝泣いた。

身を整える必要がなくなり、私は早々に顔を剃ることも櫛を通すこともしなくなった。季節は秋を迎えていたが周囲の色の変遷などには心が動かず、ただやけにばらばらと葉が落ちてくるなと思っただけだった。

不思議なことに腹が減らなかった。小川で水を飲み桑の実をもいで食べたがそれだけで生きていられた。私は自分の変化が恐ろしかった。もしかしたら本当に鬼となり死ねなくなっているのかもしれない。それを確かめたくなかったのでできるだけ食べた。人間であると信じたかった。

苦しみは私を二つの行動に動かした。痛みと共に寝床でうずくまるか、いつまでも山の中をうろつきまわるか。ある日の徘徊で私は湧水を見つけた。サラサラと小さな流れを作っている。私はその岩の割れ目に直接口をつけて啜った。それは酒だった。甘く喉と胃を焼いた。私は飲んだ。飲んで飲んで泣きながら飲んだ。痛みが遠のき頭が緩み身体中に熱が行き渡った。こんな気分は久しぶりだった。私は喜び、草花を踏みしめ踊り回った。唐突にまた彼の顔が浮かんだ。「あ。」私はわあわあ泣いた。何時間も泣いた。憚るべき人目などなかった。彼を失ったことに泣いたのはそれが初めてだった。それまでは自分の孤独とおかしな運命への戸惑いに涙していた。もう永遠に触れられないのだ、彼と私は二度と会えないのだ、それは私の所為なのだ。私は地面に倒れ込み身を捩って吠えた。あああ、あああああ、と咆哮しながら泣いた。両手の爪に土と小石が食い込んだ。眠って起きると酒の湧き水は枯れていた。地面を舐めたがわずかばかりの甘みを感じるだけだった。私は体を引きずって岩の寝床へ引き篭もりに戻った。

時にはすこし山を下ることもあった。あまりの寂しさに耐えかねて誰かに会えはしないかと足を向けるのだが、見た目に鬼だと解らずとも長いこと体を拭うことも着るものを繕うこともせず髪も顔も長い毛に覆われていればたとえ見かけても誰も挨拶を交わそうなど思わないだろう。どちらにせよ誰にも会わなかったし、私もだいたい途中で怖気付いて引き返した。しかしある時からおかしなことが起きるようになった。遠くの木に老人が、あるいは子供が縛り付けられているのを見かけるのだ。私が村にいた頃にはそのような罰はなかったはずだ。一体なんなのか訝しんだ。何ヶ月も考えてようやくいくつかの仮説が私の頭に浮かんだ。間引きしたい人間を私に消してもらいたいのだ。あるいは、私の存在が祟りとして記憶され供物として差し出しているのだ。私は胃が悪くなってその日食べた柿をげーげーと吐いた。それまでよりも一層その木に縛られた人々には近づかないことにした。

私は自分の老いがどのくらいの速さで進んでいるのか解らなかった。彼を失った時はまだずいぶんと若く、そういう時分に老いを測ることは難しい。ここには同じ年頃の人間も、先に死にゆく年寄りも、新たに成人する子供たちもいないから、比較で目安をえることもできない。けれど思っていたよりもずっと遅いような気がした。そのことをもはや私は恐ろしいと思えなくなっていた。ただぼんやり、そうか、と思った。

私はごくたまに火を焚いた。寒さも感じず焼きたいものがあるわけでもなかったがただ火を見たかった。乾いた枝と葉を集めて石でどうにかちいさな火を点けた。夜更けの静けさにぱちぱちという音が心地よかった。私はその火を見て久しぶりに彼を思い出した。どのくらいの間忘れていたのか思い出せない。生き物に近づかないようにしていたので崩れる感触もずいぶん遠くなっていた。そういうことがあった、という事実の記憶だけがあり、私は火に枝をくべながらそれも意識から押し流そうとしていた。

火に寄せられて大きな蛾が飛んできて私の着物の腕に留まった。広げた4枚の翅に目玉のような濃茶の模様をつけて、体は密集した毛に覆われているようだった。私は連れができたことを喜んだが驚かさないようにじっと座ったままでいた。枯れ葉のような色だが独自のモザイク模様には命を尽くしていく山の晩秋を体現したような美しさがあった。私たちはただ共にじっとしていた。誰かと共にあることは久しぶりだった。

蛾は前触れもなく羽ばたいて私の袖を離れた。火の上を飛んで越えようとして見えた。私は思わず両手を伸ばした。「まって」何年振りとも何十年振りともわからない言語という音が喉から出た。私は黒ずんで骨張った大きな両手で蛾を包んだ。包んでしまった。忘れていたのか。嫌な音がした。紙だ。紙が小さく畳まれる音。クシャッ。私は恐怖で凍りついた。ブルブル震えながら両手を開くことができなかった。鞠のようにやさしく合わせた両手の中を覗くことがどうしてもできなかった。それでもどうにか手を開いた。そこには粉々に砕けた枯れ葉の残骸のようなものがあった。あああ、ああああ。私は咆哮した。蛾だったものはさらさらと風に舞い地面に落ちた。

my baby[ショートストーリー]

※注意 暴力および性的な表現があります。

 

 

彼がバーに入ってくると店の空気が一変する。あたしはその瞬間を見るのが好きだ。そしてその男があたしを見つけて片方の口の端で微笑みながら近づいてくるのも。

「やあ、ベイビー」

彼はあたしにキスをしてバーテンにウィスキーを注文する。一杯目を一気に煽ってすぐ次を注がせて、あたしのほうを向いてその真っ黒な目で上から下まで撫で回すように眺める。 あたしはそんなことにはちっとも気づいてないふりで彼に聞く。

「それで今日はどんな日だった?」

「退屈」

いつもと同じ答え。こんなところでこんな時代にどんな面白いことがあるんだろう。

「お前は?」

「いい男とバーで出逢ったらよくなるかも」

あたしが肩をすくめながら言うと彼がワイシャツの襟から指先を入れてあたしのうなじから首筋をそっと撫でてくる。

「いい男?」

彼がからかうように囁く。微笑まずにはいられない。

二杯めのウィスキーも飲み干して彼は店の奥のトイレに行く。細身の体にレザーのジャケットがセクシーであたしはその背中を満ち足りた気持ちと焦燥の混じった快さで見送る。それなのに彼の後ろ姿とあたしの間ににやけたスーツ男が割り込んでくる。

「まるでビューティーアンドビーストだね」

高そうなネクタイをゆるめて酔って潤んだ目であたしを品定めする男にいらいらしつつもあたしは挑発に乗る。おもしろいことになりそうだと直感が囁いてくる。

「どういう意味?」

ツンとしながら半眼で相手の薄い色の目を見ながら自分のビールのボトルを咥えてひとくち飲む。こぼれてもいないのに舌先で口の先を拭う。その仕草はしっかりその男の興味を捉えたようでちょっと眉をあげて反応する。

「彼まるで落ちぶれたチンピラみたいじゃないか、それに比べたら君はこの店の誰よりもゴージャスだ」

褒められるのは嫌いじゃない。だけどこの後の展開のほうがずっと楽しみだ。だからあたしはわざと楽しそうに声をあげて笑う。

「まるでほかにふさわしいひとがいるみたいな言い方だね」

その男はあたしの顔にほとんど触れそうなくらい身を乗り出している。あたしの細身のスラックスの腿に大きくてあたたかい手を乗せている。

「君にその気さえあれば」

あたしも身を乗り出してその男の乱れた金髪に息がかかりそうな距離で教えてやる。

「あたしは今世界一最高の男と付き合ってんの。失せな」

誰かがなにかを言うよりも先にその男はあたしの視界から消えた。後ろ向きにスツールから引っ張り落とされてフロアに仰向けに倒れものすごい音がする。あたしを口説いていた男の後ろから戻ってきた彼が今は男に馬乗りになって殴っている。店の中は他の客たちのうるさい悲鳴で騒がしい。拳と拳の間にその男がなにか謝るようなことを言おうとするが断片的すぎてなんのことかわからない。しまいには舌を噛んでうめくこともできなくなった。彼のパンチは容赦がなくてどんどん顔の形を変えていく粘土職人みたいだ。そこらじゅう血だらけで真っ赤になっている。あたしはスツールの上からビールをちびちび飲みながらその美しい作業を鑑賞する。彼のジャケットは黒いけれど中のタンクトップが返り血で汚れていて少し心配になる。それにその男ももう動かなくなってしまってつまらない。

「大丈夫か?」

ようやく彼がその男を離してあたしのほうに向き合い心配そうに頬を撫でてくる。あたしは彼の首に両腕を回して彼の唇を奪って思いきり舌を絡ませる。ウィスキーとタバコの味がする。

「帰ろう」

散らばった椅子やテーブルを避けながらあたしと彼はお互いの腰に手を回して並んで店を出る。彼からキーを受け取ってピックアップトラックに乗り込みあたしが運転する。ほとんど酔っていないのに興奮が突き上げてくるせいで安全運転なんて気にしていられない。少なくとも2回は赤信号を無視して家についた途端に彼の服を破かんばかりに剥がし尽くした。

唇にキスをして首のタトゥーにキスをして彼の上に乗ろうとしたらひっくり返されてあたしが下になる。

「ゆっくりいこう、ベイビー」

真っ黒の目があたしのすべてを吸い込む。肌を這う彼の舌とその端のピアスの金属がふたつの違った快感をあたしに与えてくる。呻き声をあげると彼は嬉しそうにくすくす笑う。その笑い声であの男の血だらけの顔が浮かんでさらに興奮する。殴り続ける美しいあたしの男と、退屈なスーツを着たつまらない優男の変形した顔面。

ふたりでいるといつも最高だ。なにも悪いことなんか起きない。なにもかも美しくて楽しくて世界一幸せ。彼の唇があたしのおなかを越えて下半身に向かっていく。身を捩りながらカーテンの向こうのあの青と赤のぴかぴかしているライトはなんだっけとぼんやり考える。だけどなんだっていいや。あたしには最高の男がいて、ジンのボトルが一本、コンドームもたくさんで、ナイトスタンドには銃もあるし。なにがあっても大丈夫。あたしたちを引き離せるものなんかない。

見知らぬ駅[ショートストーリー]

「ごめん、ちょっと」

そう囁かれて顔を見ると確かに青くなっている。

「一旦降りよか」

数分後に開いた電車のドアから途中下車すると、コウちゃんはそのまま目の前のベンチにどさりと腰を下ろした。わたしもその隣にそっと腰掛けて、コウちゃんのカバンと自分のをまとめて膝にかかえる。同じ電車から降りた人々はみんな改札へ向けてぞろぞろと立ち去り、電車はドアを閉めてキュウウウと線路を擦りながら走っていった。ホームにはわたしとコウちゃんとがらんどうの空間だけが残る。

心配しすぎてもいけない。わたしにできることはなにもないのだから。それでも不安さややるせなさを感じないことは難しい。こっそりと隣を盗み見るとコウちゃんはこめかみを押さえて目を閉じていた。もしもいきなり嘔吐しそうになっても大丈夫なようにわたしのカバンにはビニール袋とティッシュが入れてあるし、それはコウちゃんも同じだろう。けれど今日のところはそこまで酷くはない様子でわたしはこっそり安堵する。

次の電車が風と共にホームに押し入ってきた。ドアが開き、また人々がぞろぞろと吐き出される。この駅は乗る人よりも降りる人が多い。会社員風の人たち、大人で、頼りになりそうな、普通の人たち。

「あの、大丈夫ですか」

見知らぬスーツ姿の男性がコウちゃんではなくわたしに声をかける。コウちゃんはわたしの身体の影で深くうつむいたままでいる。わたしはスーツの人に代わりに答える。

「はい、ちょっと具合悪くなっちゃったみたいで。大丈夫です」

スーツの人がわたしたちの占領しているベンチの隣の自動販売機で水のボトルを買って手渡してくれる。「よかったらどうぞ」とだけ言い、ほかの人々と同じ方向に吸い込まれていった。わたしは少しその背中を見送ってからコウちゃんに冷たい水のボトルを手渡す。

「もらったよ」

コウちゃんは無言で受け取って頭に押し当てて呻いた。電車も人もいなくなったホームはあまりに広々としていて静かだ。

「ああいうの良かよね」

わたしのつぶやきに、眉間に深い盾皺を刻んだ顔で睨みつけるように下からコウちゃんが「浮気?」と凄味のある声で言った。嫉妬ではなく頭痛の波の中から声を出しているので恐ろしく聞こえるだけだ。

「あぁやって知らん人に親切なこととか物とか差し出してさ、そんでサクッと立ち去る的なん。かっこよかやん?」

「やっぱり浮気か。最低だお前は」

水のボトルをぐいと押しつけられたのでキャップを開けて返してやる。わたしはポケットを探って鎮痛薬の残りを出す。

「飲む?」

「自分でも持っとるけど」

そう言いつつもコウちゃんは素直にわたしが手渡した薬を2錠口に入れて水で流し込んだ。それからまた目を閉じて、ボトルをこめかみに当てる。

また電車が入ってきた。そして出ていった。また来て、また出た。わたしたちのベンチは取り残された小島みたいに無視され避けられながらじっと沈黙している。周囲を人々が右から左へ左から右へ扉から改札へ改札から扉へ、濁流のように流れていく。わたしたちだけが時を止められたように静かに佇んでいる。その間にはがらんどうの静けさが来て、雀たちの忙しそうなさえずりがやけに響く。

どのくらいそうしてぼんやりしていたか分からない。そろそろどうだろうかと、またこっそりコウちゃんのほうを盗み見ると、コウちゃんもわたしを見ていた。まだしかめ面をしているが顔色は戻っている。

「むっちゃん」

「ハイ」

こうちゃんにオイとかなぁとかではなく名前で呼ばれることは珍しいのでわたしは少し緊張した。快い緊張と不安の両方だ。

「ただ横におるだけって、すごいこととよ」

わたしの不甲斐ない気持ちをコウちゃんに気づかれていたことを恥ずかしく思った。苦しんでいるほうが支えるべきほうを慰めるなんて間違っている。それでもコウちゃんがそう言うならきっとそうなのだろう。わたしにできることなんて一言も漏らさず信じることだけだ。

「うん」

わたしはそっとコウちゃんの手を握った。コウちゃんもやさしくもにもにと握り返してくれた。

「この後どうしよか。なんか帰って近場でウロウロしてもいいっちゃn

「なん言いよるん?なんのために今日休み合わせたと思っとるん?次の回なら間に合うやろ?絶対4DXで観るって言うたよな?」

コウちゃんは先ほどまで頭痛の発作で死にかけていたとは思えない瞬発力でわたしの発言に被せて抗議して、ちょうど鳴り始めた次の電車のアナウンスに立ち上がると繋いだ手をぐいぐい引っ張ってすっかり根の生えたわたしの尻をベンチから引っぺがした。地面を熱心に突いて回っていた雀たちが一斉に飛び立ち、広々としたホームが電車の巨体を迎え入れた。ぷしゅうと開いた扉をくぐり入ると、またぷしゅうと言って扉は閉まり、ガタゴトとわたしたちを運び去っていった。