toripiyotan

何回もおなじこと喋る

鬼となる[ショートストーリー]

※暗いお話です。ストーリーを決めずに即興で書きました。

 

 

砂の城を崩すように指が顔を壊した。私が触れたそばから彼の両頬はぼろぼろぼろ、とものの形をとどめず地面に落ちて堆積していった。彼は「あ。」と驚きの声をあげたかあげないかですっかり姿を消してしまったけれどそれを見ていた第三者がぎゃあああと甲高く悲鳴を上げた。恐ろしいのは私の方だ。私の手が私の愛する人を無にしたというのに私にはなんの実感もなくどうしたらいいのかわからない。昨日まではこんなことなかった。そのはずだ。私は人間だと思っていた。それなのに今は鬼と呼ばれている。

砂となった彼はどこにいったのだろう?死んでしまったのだろうか。それは通常の死と同じなのか。消滅か、それともあの砂つぶひとつひとつのなかで生きているのだろうか。日に何度も思い出す。指先の感覚が消えない。あたたかい頬を包んだらそこにあるはずの外界と体内を隔てているはずの皮膚の弾力がなくてそのまま私の指は肩透かしのように飲み込まれた。米袋の中の枡、酒樽の中の杓子、ぬかるみに飛び込む子の足のように。ずぶり、さらさら。わたしは愛する人を破壊した。どうしてなのか。どのようにしてなのか。考えてもわからないことが延々と湧いてあふれる。はじめは彼の所為なのかと思った。そう思いたかった。しかし私に縄をかけにきた者も同じ目に遭った。彼らは同じ場所に行ったのだろうか、それともそれぞれただ無に帰したのだろうか。

私は愛するものと多くの時間を過ごしたはずだ。それなのにもう「あ。」という崩れた顔しか思い出せない。私を責めているだろうか。私は奪ったのだろうか。命を?何を?

誰も安全に私を始末することなどできないとわかって、せめてどうにか目に入らない遠くへ追い出そうとした。最後には村中が泣きながら頼み込んだ。「おれたちのことをちっとでも考える良心がまだ残ってるんなら」と遠くから懇願された。私は彼らだったはずなのに今は一部ではなく異物だった。切り離して捨てるしかない。私は鬼と呼ばれてもまだ人間だと信じていたので彼らの頼みを受け入れて山の奥のずっと奥まで居住を移すことにした。誰も私への良心をちっとでも残してせめて時には顔を見に来ようなど言うものはなかった。私は唐突に降ってきた呪いの罰を受けなければならない。なぜなのかは考えてはいけない。

山をあちこち探し回って、どうにか雨風を凌げる場所を探しあてた。入口の狭い岩だらけの洞窟のような場所で私は苔の上に眠った。私はおそろしく孤独だった。彼の夢を何度も見た。彼はあの世に行けただろうか。それとも魂ごと崩れたのか。あるいはまだどこかで生きているのだろうか、彼として、あるいは別の何かとして。目が覚めた時が最も苦しかった。身を横たえている場所が村の自分の家ではなくどこともしれない山奥で二度と誰にも会えないのだという事実が、眠っている間に脱いでおいた鎧のように一挙に全身にのしかかってくる。私は泣いた。毎朝泣いた。

身を整える必要がなくなり、私は早々に顔を剃ることも櫛を通すこともしなくなった。季節は秋を迎えていたが周囲の色の変遷などには心が動かず、ただやけにばらばらと葉が落ちてくるなと思っただけだった。

不思議なことに腹が減らなかった。小川で水を飲み桑の実をもいで食べたがそれだけで生きていられた。私は自分の変化が恐ろしかった。もしかしたら本当に鬼となり死ねなくなっているのかもしれない。それを確かめたくなかったのでできるだけ食べた。人間であると信じたかった。

苦しみは私を二つの行動に動かした。痛みと共に寝床でうずくまるか、いつまでも山の中をうろつきまわるか。ある日の徘徊で私は湧水を見つけた。サラサラと小さな流れを作っている。私はその岩の割れ目に直接口をつけて啜った。それは酒だった。甘く喉と胃を焼いた。私は飲んだ。飲んで飲んで泣きながら飲んだ。痛みが遠のき頭が緩み身体中に熱が行き渡った。こんな気分は久しぶりだった。私は喜び、草花を踏みしめ踊り回った。唐突にまた彼の顔が浮かんだ。「あ。」私はわあわあ泣いた。何時間も泣いた。憚るべき人目などなかった。彼を失ったことに泣いたのはそれが初めてだった。それまでは自分の孤独とおかしな運命への戸惑いに涙していた。もう永遠に触れられないのだ、彼と私は二度と会えないのだ、それは私の所為なのだ。私は地面に倒れ込み身を捩って吠えた。あああ、あああああ、と咆哮しながら泣いた。両手の爪に土と小石が食い込んだ。眠って起きると酒の湧き水は枯れていた。地面を舐めたがわずかばかりの甘みを感じるだけだった。私は体を引きずって岩の寝床へ引き篭もりに戻った。

時にはすこし山を下ることもあった。あまりの寂しさに耐えかねて誰かに会えはしないかと足を向けるのだが、見た目に鬼だと解らずとも長いこと体を拭うことも着るものを繕うこともせず髪も顔も長い毛に覆われていればたとえ見かけても誰も挨拶を交わそうなど思わないだろう。どちらにせよ誰にも会わなかったし、私もだいたい途中で怖気付いて引き返した。しかしある時からおかしなことが起きるようになった。遠くの木に老人が、あるいは子供が縛り付けられているのを見かけるのだ。私が村にいた頃にはそのような罰はなかったはずだ。一体なんなのか訝しんだ。何ヶ月も考えてようやくいくつかの仮説が私の頭に浮かんだ。間引きしたい人間を私に消してもらいたいのだ。あるいは、私の存在が祟りとして記憶され供物として差し出しているのだ。私は胃が悪くなってその日食べた柿をげーげーと吐いた。それまでよりも一層その木に縛られた人々には近づかないことにした。

私は自分の老いがどのくらいの速さで進んでいるのか解らなかった。彼を失った時はまだずいぶんと若く、そういう時分に老いを測ることは難しい。ここには同じ年頃の人間も、先に死にゆく年寄りも、新たに成人する子供たちもいないから、比較で目安をえることもできない。けれど思っていたよりもずっと遅いような気がした。そのことをもはや私は恐ろしいと思えなくなっていた。ただぼんやり、そうか、と思った。

私はごくたまに火を焚いた。寒さも感じず焼きたいものがあるわけでもなかったがただ火を見たかった。乾いた枝と葉を集めて石でどうにかちいさな火を点けた。夜更けの静けさにぱちぱちという音が心地よかった。私はその火を見て久しぶりに彼を思い出した。どのくらいの間忘れていたのか思い出せない。生き物に近づかないようにしていたので崩れる感触もずいぶん遠くなっていた。そういうことがあった、という事実の記憶だけがあり、私は火に枝をくべながらそれも意識から押し流そうとしていた。

火に寄せられて大きな蛾が飛んできて私の着物の腕に留まった。広げた4枚の翅に目玉のような濃茶の模様をつけて、体は密集した毛に覆われているようだった。私は連れができたことを喜んだが驚かさないようにじっと座ったままでいた。枯れ葉のような色だが独自のモザイク模様には命を尽くしていく山の晩秋を体現したような美しさがあった。私たちはただ共にじっとしていた。誰かと共にあることは久しぶりだった。

蛾は前触れもなく羽ばたいて私の袖を離れた。火の上を飛んで越えようとして見えた。私は思わず両手を伸ばした。「まって」何年振りとも何十年振りともわからない言語という音が喉から出た。私は黒ずんで骨張った大きな両手で蛾を包んだ。包んでしまった。忘れていたのか。嫌な音がした。紙だ。紙が小さく畳まれる音。クシャッ。私は恐怖で凍りついた。ブルブル震えながら両手を開くことができなかった。鞠のようにやさしく合わせた両手の中を覗くことがどうしてもできなかった。それでもどうにか手を開いた。そこには粉々に砕けた枯れ葉の残骸のようなものがあった。あああ、ああああ。私は咆哮した。蛾だったものはさらさらと風に舞い地面に落ちた。