toripiyotan

何回もおなじこと喋る

Vihaan[ショートストーリー]

※注意※   人身売買、児童虐待性的虐待、殺人に関わる表現があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地平線の端がオレンジ色に染まり、ようやく夜の藍が白く薄らんだ頃、掃き清めたばかりの戸口に彼は現れた。

「あなたが交換商か」

私はちょうど朝の熱い茶を淹れようとしているところで、そうだと頷き椅子を勧めた。彼は狭い店内の暗がりに滑り込むように腰掛け、私は茶の用意をしながら彼を観察した。とても若く少年と言ってもいいほどにも見えるが纏っている雰囲気は円熟していた。祭り女のように胸からサンダル履きの足首までを真っ白の衣で包み、剥き出しの細い肩と剃り上げた頭は鮮やかな赤に金糸の刺繍を施した透ける紗の大きなショールで包んでいた。私は先入観を持たないように努めたが、大金持ちのための男娼だろうかという感想を抱かないことは難しかった。

私は湯気がやわらかく立ち上る取手のない小さなカップを差し出しながら尋ねた。

「それで、どのようなものの交換をお望みでしょう」

彼は金魚が尾ひれを振るような弧を描いで茶器を手に取りながら尋ね返した。

「……どのようなものでも、交換していただけると聞きました」

「ええ、その通りです。どのようなものにも対等の対価を。納得いただけなければ無理に取引させることもありません」

「僕には、僕の物語しかありません。これを交換したい」

時に遠方の国からの旅人や古老が情報や昔話を売って行くことはあっても、若者からこのような申し出を聞くことは珍しく、私は素直に驚いた。

「構いませんが、必ずしも値打ちのあるものと交換できるとは限りませんよ。そしてそれは聞かせてもらわなければ判断できない。あなたにとって有利な取引になるかどうかも分からない」

彼はきゅっと目尻の上がった細いアーモンドのような目をこちらに向けた。朝日が射して瞳は灰色に透き通っていた。

「あなたが妥当だと思うものとの交換で結構です。何の価値もないと思われれば僕はただ黙って引き取ります」

少し反り上がった厚い上唇を軽く開き口角をわずかに上げて彼は微笑んでいたが全ては熟練ゆえの妖艶さであり、私はその後ろに必死な少年の顔を見た気がした。価値のある話かどうかを判断するよりも前に、私は彼の話を聞かなければならないと本能的に感じたのでこの取引を受けることにした。

私が交換の契約のために左手を差し出し、彼の右手と重ねお互いの手首を掴み合った。彼の右手の甲には、奴隷の刺青があった。

「それでは交換の精霊に誓って、あなたと公正で誠実な取引を行いましょう。どのような物語をいただけるのでしょうか」

 

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僕は自分の生まれを知りません。最初の記憶は路上で兄弟たちと物乞いをして駆け回っていました。とはいえ彼らが本当に血の繋がった兄弟かは今では分かりませんが。次の記憶は同い年くらいの大勢の子供たちと箱詰めにされて何日もぐらぐらと揺られながら海を渡ったことです。家畜の選別と同じように体のあちらこちらを触られ覗き込まれ数人が選び取られました。選ばれなかった残りがどうなったのかは知りません。僕を含めて3人は大人の男たちに引きずられて大人の女たちに引き渡され、体を洗われ毛を抜かれ爪を切られ船の甲板よりもゴシゴシと磨き上げられました。僕たちはたいてい暴れて抵抗しましたがそのたびに男たちからも女たちからも殴られました。僕たち3人はこれまで着たこともないほど……とはいえ当時の僕にとってはどのような服であってもそう感じたでしょうが……清潔な麻のシャツとズボンを着せられ大きな館に連れて行かれました。鉄の重厚な門が開くと美しい花の咲き乱れる前庭が現れ、その楽園のような様に驚いたことを昨日のように思い出せます。それから呼び鈴の音、意匠を凝らした玄関ドアの美しさ!なにもかもが別世界で僕たちはどきどきとしていました。なにか特別良いことが起きたに違いないと思い、またこれからもとても良いことが起きるに決まっていると顔を見合わせてにやっと笑い合いました。僕たちはつるつると反射する寄木作りの廊下を進み巨大な部屋に通されました。今ではその館の中で最も小さな玄関横の靴を履くための部屋であることを知っていますが、その頃にはこれまで見たことあるどんな家よりも広く豪華に見えたのです。そこで立って待っていると、ひときわ着飾った男がやってきました。これまで僕たちを殴ってこづいてきた男たちとは全く違います。口髭を整えていて、レース飾りのあるシャツを着ていて、靴はピカピカに輝いていて、手の指には宝石のはまった金の指輪をいくつもはめていました。その男は僕たち3人をじっくり舐めるように眺め、目の色を覗き込み、なにか声を出すように言い、僕たちを連れてきた男たちになにか確認して、それからまた僕たちを眺めました。それから「よし、この子供にしよう」と僕を指さすとさっさと踵をかえしていなくなり、男たちは僕を除く他のふたりを連れて出て行ってしまい僕は部屋にひとり残されてしまいました。きっと良いことがあるに違いないという期待はとうに萎んでいました。僕はその頃6つかそこらでしたが、自分が買われたのだということは理解できました。おそらくひどくこき使われることになるぞと予感していて、そしてそれは当たりました。しばらく立ったまま待っていると身なりは整っているけれど固い表情の知らない女たちがやってきました。僕はまた湯に入れられゴシゴシと磨かれ、抵抗すれば叩かれ、手に刺青を入れられました。しかし食事は十分に与えられ、暖かく清潔な寝床を与えられました。僕はひょっとするとこのまま良いことが続くかもしれないと、不安を無視し始めました。しかし1~2週間ほどそうして過ごしたあと、ある日の湯あみで女たちから念入りに香油をすり込まれ顔に粉をはたかれ、これまで着せられたものよりもはるかに上等のやわらかいシャツとズボンを着せられました。僕はどうしてなのか尋ねましたが誰も口を聞きませんでした。彼女たちはそれまでも僕と話すどころか目を合わせようともしなかったので僕は諦めました。それから館の廊下を案内の老いた男のうしろについて長く歩きました。そこは館の最深部であり、館の主人の主寝室でした。老人は扉を叩き、開けて、僕を押し込むと閉めました。その部屋で僕は最初の日に見た口髭のある男とふたりきりでした。彼は初めのうちは僕に果物をすすめたり、館には慣れたかどうか尋ねたりと親切そうに振る舞いました。僕は最初は緊張と警戒から固まっていましたが徐々に果物を齧ったり彼の膝に座ったりするようになりました。彼は、自分は僕の主人なのだ、言うことをきいて良い子にしていれば悪いことはなにも起きないと言いました。僕は頬を撫でられながら頷きました。どうにも居心地が悪くなっていましたが彼は離しませんでした。彼は自分は宰相なのだ、宰相とは何か知っているかと聞きました。僕が知らないと言うと彼はとてもおかしなことを聞いたように大声で笑いました。それから僕のシャツとズボンを脱がせて裸にしました。彼は僕をベッドのマットレスに押しつけました。僕は何が起きているのかわかりませんでした。肛門に激痛が走って悲鳴を上げると彼はとても楽しそうに笑いましたが、あまりにいつまでも叫んでいると言って殴りました。僕は分厚くやわらかいシーツを噛んで痛みと混乱に耐え、夜明け前に解放されました。そういったことは毎日なこともあれば何週間も放っておかれることもありました。僕は彼に快楽を与えることを少しずつ覚えました。そうすれば殴られることはずっと少なくなるからです。それでも彼は自分の快楽のために僕を傷つけるのを好みましたから常に苦しみから逃れられたわけではありませんが。僕は彼を憎んでいましたが愛しているふりをしました。そうするとその館での日々はずっと耐えやすくなりました。僕が大人しくなったので僕の世話をする女たちもそれまでほど頑なではなくなりました。ひとりの中年の女などは僕に簡単な読み書きを教えてくれました。彼女は自分の子供を亡くしたばかりなのだと言っていました。しかし僕がようやく数の記し方を覚えた頃に彼女はいなくなりました。館のどこを探しても見つかりませんし僕の湯あみや磨き上げにあたる女は別の若いもっと固い表情をしたひとに変わっていました。きっと辞めさせられたか、死んだかしたのだろうと思いました。僕はまた黙ることにしましたし、周囲の世話をする人々も黙りました。そのようにして僕は何年もの時間を館で過ごし成長しました。時にはほんの短い間なら市に外出することも許されました。しかし僕には行く宛も訪ねたい人も必要な物もありませんでしたし、主人もそれをわかっていました。むしろ喜びよりも苦痛を味合わせるための許しだったのかもしれません。ある日、彼は僕の背が急に伸びたと文句を言いました。確かに僕は成長期に入り、やわらかさよりも骨張った硬さが目立つようになっていました。食事の量を減らされ運動量も制限されましたが自然の成長には逆らえずひょろひょろと次第に主人の背丈に届くほどになりました。これは昨日のことですが、彼はそろそろまた子供を買おうと思っていると言いました。近頃では彼は僕にそういった秘密を打ち明けるようになっていたのです。かつての僕のような子供を買ってきて今度は僕がその子供に必要なことを教えてはどうだろうかと言いました。僕が彼の目をじっと見つめると心配しなくても僕を手放すつもりはないから安心しろと言いました。僕はほほえみ、ベッドを出て水差しの横の果物かごからプラムをひとつとナイフを取って戻りました。裸の彼の胸に馬乗りになると僕は彼の口にプラムを近づけ彼はそれに答えるように喉をそらせ口をあけて齧り付きました。僕はそのままプラムを彼の口の中に押し込むと喉笛にナイフを突き立てました。抜いてまた突きました。何度も何度も刺すと彼が息をしようとするたびゴボッゴボッと血が吹き出しました。僕は次に腹を刺しました。めちゃくちゃに何度も何度も刺しては抜いて、血と肉の欠片が飛び散りました。彼のご自慢の股間にもナイフを突き立てそこになにかあったことなどわからないくらいずたずたにしましたが、その時にはもう彼は目を見開いて口からプラムの果汁をだらしなく垂らしたまま息絶えていました。僕は寝台から降りると真新しいシーツで返り血だらけになった自分の体を拭いて、手洗い盆の水でしっかり顔を洗ってぬぐいました。それから裸のまま主人の寝室から出て、長い廊下をひとりで戻り、自室で水浴をしました。この後をどうしようかと考えたときに、僕に読み書きを教えてくれた女が交換商の話をしていたのを思い出しました。館の者たちはみんな主人が”戯れ”の翌日は日が高くなるまで人を寄せないことを知っているので誰に見咎められることもなく僕は表の門から出ました。そうして市の最も奥まったハンノキのある路地の交換商のあなたのもとへ来たのです。

 

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目の前の赤い紗を被った少年は語り終えるとぬるくなった茶を啜った。もうその顔に卓越した怪しい誘惑者の色はなかった。ただ自分のしたことに怯え、これからのことに怯え、これまでのことに苦悩している子供だった。私の中では様々な感情の嵐が起きていた。混乱し泣き叫び呪い許しを乞いたい思いがした。しかし何になるだろう。私は自分の左手がいまだに彼の右手首を掴んでいることに気づき取引の最中であることをようやく思い出した。

「なんと……なんという壮絶な物語でしょう。わたしには……それと同等に値打ちのある物は残念ながら持ち合わせていません」

私はつかえながら言った。彼は目を伏せて微笑んだ。

「わかりました。いいのです、僕は」

「なので、あなたの物語にふさわしい交換は、わたしからの物語でいかがでしょうか」

私は彼が言葉を終えるより先に続けた。彼は顔を上げた。用心深く私を見て、最後には頷いた。私は自分の茶をぐいと飲み、少年の目を見て低い声でゆっくり語った。

 

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「あなたは自分と、他のどこかの子供たちを守るために戦った。そのことで精霊も神も誰であろうとあなたを罪に問えない。しかしあなたはこの街を離れるべきだという私の助言を聞きいれる。私はあなたに名前を変えて……そう、ヴィハーンと名乗るように言う。これから渡す粗末で少し大きすぎる市井の誰もと同じようなシャツとズボンに着替える。それからわたしから少しの銀貨の入った袋を受け取りさようならを言う。この店を出てすぐ右に折れ三軒目左側の彫物師のところで『交換商との取引だ』と言いその右手の刺青を加工してもらう。そして何か食べ、どこか安全な場所…寺院の中で少し眠る。日が落ちて月が出たら街の東側から海側の城壁の外の狭い階段を降りていく。いちばん下に小さな渡し船と船頭がいる。船頭は実直で信頼できる者でここでもあなたは『交換商との取引だ』と言う。あなたは船に乗りこみ海を越えて隣国に入る。夜明けまでには港町に着き、そこではあなたのことを知る人は誰もいない。あなたは市場で仕事を探す。港町ではあなたのような小間使いの青年はいくらでも必要だからすぐに仕事はみつかる。あなたは文字の読み書きができて物覚えもよいのですぐに見習いの商人となる。やがてあなたは信頼できる人と信頼に値しない人を見分けるようになる。はじめは戸惑うがやがて人を愛することがどういうことなのかわかるようになる。あなたはいつか自分の船を持ち立派な商人になり世界中の海をまわる。あなたはある日いかに交換商を訪ねた夜明けから遠くに来たかを思い、苦しみは遠くの景色のような存在となり、幸福だと感じるようになる」

 

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私は語り終え深呼吸をした。そして尋ねた。

「いかがか」

少年は灰色の左目から涙をひとつぶ落とした。

「たいへん結構です」

私は自分の無力さに胸が張り裂けそうだった。細い炭を持って彼の右手の甲に線や円を細かく書き足して奴隷の印を簡単な太陽神の紋様に変えた。

私は店の奥の小部屋の箪笥から着古された麻の上下を持ってきて彼に渡した。彼がショールを脱ぎ捨て動きやすいシャツとズボンを身につける間、私は小さな革袋に使い勝手の良い幾らかの銀貨と銅貨を入れて彼に渡した。

「気をつけて」

私は2つの意味を込めて言った。革袋をうっかり盗まれないようにと、これからの旅路についてと。

彼はもはや金持ちのための男娼には見えなかった。精悍な顔をした貧しいが賢そうな青年の風貌になっていた。長い間生き延びるため身につけた妖艶さは脱ぎ捨てた服と共に剥がれ落ちたようだった。

「ありがとう、物語を」

ヴィハーンが言った。

「さようならヴィハーン、私にはもったいない取引だった」

「さようなら」

彼はそうして店を出ると右に折れ、その姿は見えなくなった。

「ずいぶん早くからお客さんが来ていたんですね、先生」

いつからいたのか店の外のベンチには長い髪を背中へ一本の編み込みにして垂らしているアジャが座っていた。アジャはいつもこうして店の外のベンチに座っている。私の用心棒だと言って聞かない。

「話を聞いたかい?」

私が尋ねると心外そうにアジャが答えた。

「いいえ。どなたですか」

「彼はね、歴史的な悪魔を殺した青年だよ」

「それじゃ英雄ですね」

私はアジャの率直な感想に目を細めた。

「彼はそうは思っていないだろうね。どれほどの人がそれによって救われようとも、彼はやはり悪魔を殺した手触りを感じた本人なのだから」

堪えきれなくなった涙が私の両眼から伝い落ちた。私はアジャに気づかれる前にサッと手のひらで拭い取った。彼の手首のあまりに細い骨の感触がまだ左手に残っていた。

私は室内に戻ると彼の置いていった紗の赤いショールと柔らかい布をたっぷり贅沢に使った白い衣を持って表に出てゴミを焼いている大きな鉄の缶の中へ放り込んでマッチを擦った。アジャがあっと声を上げた。

「もったいないな、売ると店がもうひとつ買えますよ」

「店はひとつで十分。高価であろうと呪われたものを無闇に他人に押し付けるものでもありませんからね」

金糸がパチパチと火に飲まれていくのを見ながら私は言った。アジャは神妙に頷き、炎によって清められていく衣類とそれを見守る私を見ていた。

「アジャ、さあレモン水を飲みに行こう」

私たちはいつも通りに動き出した街の中へと入っていった。

 

 

The meaning of Vihaan is ‘dawn’ or ‘sunrise’ It comes from a Sanskrit word and is also synonymous with ‘first ray of sun’ and ‘the beginning of a new age'.