toripiyotan

何回もおなじこと喋る

アーモンドチョコ[ショートストーリー]

(注意 精神疾患の症状についての表現があります)

 

 

階下でカランカランと空缶の転がる音がした。

私は閉じていたまぶたを上げて床に横になったまま何の音だろうかと考えた。母は仕事に出かけているし、誰かが訪ねてくるなんて話も聞いていないのでリビングあるいはキッチンで缶が転がる音がするはずはない。泥棒でも入ったのかな、とぼんやり思った。

けれどどうでもよくて、もう考えることに疲れて、スウェットのフード越しにひんやりと気持ちの良い床に頬を押しつけてまた瞳を閉じようとした。

私の頭側から小さな1ミリくらいの羽虫がよちよちと歩いてきた。まるで私を動いたり潰したりする危険のない岩のように、目の前を、鼻先を、唇の前を、歩き過ぎていく。私はその様子を見つめて、ふうっと息を吹きかけてみた。羽虫は小さな体の華奢な6本足をぎゅっと踏ん張り体よりずっと大きな透けた翅をばたばた揺らしながら耐えていた。私の気まぐれが止むと、まるで見限るように大きな翅を広げて部屋のどこかへ飛んでいってしまった。あの子もどこかで死ぬのだろうか、窓にぶつかって、外は見えるのに出られなくて。あるいは蜘蛛の巣に絡まって食べられて。私に踏み潰されて、あるいはただ飢えて。

もう夕方だというのに、今日はなにも口にしていなかった。薬も飲んでいない。このまま床にいたいと思ったが、母親に更なる心配をかけるのは避けたいなと思った。私はパジャマの上にフーディーを着た格好のまま裸足で立ち上がり、階段を降り始めた。そうだ、泥棒がいるんだった。でも、そんなことどうでもよかった。鉢合わせて殺されるならそれはそれで。

キッチンにたどり着いても誰もいなかった。コップに水道水を注いで、カウンターの上に見つけた4個入りのミニクロワッサンの袋を手にリビングに向かった。リビングにいたのは泥棒ではなく弟だった。ソファの前のカーペットに胡座で座りテーブルに突っ伏している。ビールの空き缶が散乱していた。

寝ているのだろうかと思い、私も音を立てないようにそっと向かい側のカーペットの上に座った。ところがテーブルに水を置きクロワッサンの袋をバリっと開けたとき、のっそりと顔を上げた弟の顔は濡れていた。飲酒で赤くなった顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていて、顔を押し付けていたシャツの袖は雨に当たってきたようにびっしょりと濡れていた。私は驚いた。お互い大人になり離れて暮らすようになって長いとはいえ、弟がこんな顔をしているところを見るのは7歳より後にあっただろうか。彼はいつだって陽気な楽天家だったのだから。心配性のリアリストは私のほうだ。私は黙ってカウンターからボックスティッシュを取ってテーブルの上の弟側に近いところに置いた。

「大丈夫?」

私が尋ねると、鼻を噛んで涙を拭いながら弟は頷いた。けれど拭う先から涙が溢れている。ティッシュの束を目に押しつけて口を歪め、声を上げないように泣き続けていた。

私はミニクロワッサンを食べた。食欲はなかったが、端から小さくちぎって口に運ぶ。咀嚼する。唾液が出てきて口の中が糊状になるのが気持ち悪いので水を少し含んで飲み下す。それを何度も何度も繰り返して、ようやくひとつ目のミニクロワッサンを完食した。その頃には体が食べることと食欲を思い出していて、少しくらい大きめにちぎっても飲み下すことができるようになってきた。私がそうして地道な努力の末にふたつのミニクロワッサンを食べ終えた頃、ふと視線を感じて弟の方を見ると彼は私の様子を厳粛な儀式の拝観者あるいは心ここに在らずの凝視で見つめていた。私は水で最後の糊を飲み込んだ。

「どうしたの?」

弟はしばらく何も答えなかった。号泣の後のぼんやりとした微熱の中にいた。言うべき言葉が目の前をふらふら泳いでいるのをようやく捕まえ私の顔を見ずに発した。

「喧嘩した」

私は頷いた。

「ひどいの?」

「別れた……かもしれない」

そう言って弟はまた涙の発作に顔を歪めた。私には経験のないことだがカップルというものは一緒に住むと色々と諍いが起きやすいというのをあちこちで聞いたことがある。聞いたことはあるけれど、私には言える言葉が何もない。慰めになることも、笑わせるようなジョークも。いや、いまこのタイミングでジョークは絶対にやめた方がいいけれど。私は3つ目のミニクロワッサンの表皮を小さくむしりながら慎重に尋ねた。

「その……話したい?なにがあったか?」

弟は首を横に振った。横に振ったけれど話し始めた。彼には昔からこう言うところがある。

「最初は大したことじゃなくて、ほんとに、もう覚えてないんだよ。でも言い合ううちにどんどんおかしな方に行って、どっちもすごい怒って、訳の分からない怒りの妖怪みたいなやつに乗っ取られたみたいに思ってもない事どんどん言って罵って。最後はあいつはもう完全に呆れてたんだけどそれが逆にもっと腹が立って、それで俺から別れるって言って出てきた」

私は弟の喧嘩の顛末を聞きながらミニクロワッサンの全身から表皮だけを剥ぎ取り脱皮させ、茶色い表面の屑だけ掌に集めて口に入れた。それからまっしろくなった中身の方をまた小さくちぎり始めた。

「つらいね」

私の感想に弟が頷いた。人は時々バカなことをしてしまうものだ。最も大切な人を傷つけて背を向けたり、そのせいで全身がバラバラに引き裂かれて心臓がひどい痛みに縮み上がっているのに酒を飲むしか思いつかなかったり。

それから私たちはまた無言に戻り、カーペットに向かい合わせに座ったまま、私はクロワッサンを小さくちぎり、弟は完全にぬるくなった缶ビールの残りをあおった。夕方のひんやりとした空気がどこからか寄せてきた。曇り空から顔を出した西日がレースのカーテン越しに窓から差し込んでいた。夕方のチャイムが鳴って近所の子供たちが大騒ぎしながら帰って行った。私たちはただ、リビングで無言で座っていた。

「あ、そうだ忘れてた」

弟が買い物袋をゴソゴソと探って私に箱を手渡してきた。アーモンドがチョコレートでコーティングされたコロコロとしたチョコレート菓子の箱。

「え、なんで」

唐突に渡されたお菓子の箱に私は文脈が理解できなくて狼狽えた。頼んだことがあっただろうかと記憶を振り返っていると、弟はちょっと口を尖らせて弁解がましく答えた。

「姉ちゃん昔それ好きだったじゃん。おれが勝手に食ったらぶん殴るくらいだったくせに。それにナッツもチョコもセロトニンに良いとか言うんでしょ?」

私はその日はじめて笑った。いや、数週間ぶりだったかもしれない。にこにことして、心から嬉しかった。

「ん、ありがと」

その時、弟のスマートフォンがソファの上からピリリリとけたたましく着信を知らせた。弟は画面を見るとオロオロとした様子で私に顔を向けた。その顔を懐かしいな、と思った。彼が5歳の時に一緒に迷子になった時と同じ顔だ。私の助けを求めている。でも同時に、私と一緒にいるからきっと何とかなるはずだと信頼している。

「彼氏?」

私の質問に頷きながら弟が上ずった声で言った。

「どうしよう?出たがいいよね?でも、もし……

「でももし何を言われても少なくとも謝れるでしょ?切れちゃうよ」

私は水の半分残ったコップとチョコレートの箱とカウンターの上の処方箋の袋を掴むと弟に親指を立てたダサいジェスチャーで応援を送り、プライバシーのためにもそそくさと階段に向かった。

自室に入ると小さなサイドテーブルに薬のシートを出して錠剤を押し出した。食後に一粒ずつ、食後に一粒ずつ、私はマントラのように胸の中で唱えながら多すぎも少なすぎもしない指示通りの数の薬を飲み込み、水をゴクゴクと飲み干した。

階下で性急な足音がした。玄関が開きそして閉まる。

どんな電話だったのだろう、大丈夫だったのだろうか、心配する考えが頭にぐるぐるととぐろを巻き始めたので私は弟から渡されたチョコレートの箱のフィルムをするすると開けた。つやつやとした丸いアーモンドチョコレートをひとつ口に入れてまず甘さを舌の上で溶かし、奥歯でガリッと中心まで噛み砕いた。そうだった、確かに私はこれが好きだった。すっかり忘れていたけれど。ベッドに横になり、寒さのためではなく安心を求めてブランケットを体に巻き付けていると充電器に挿しっぱなしにしていたスマートフォンが震えた。メッセージは弟からだった。

『仲直りできた!ありがと!』

泣いている絵文字付きのひと言に安堵する。よかった。あんなに傷ついている弟の姿は初めてだった。上手くいってよかった。そして、私にとっても。私もまだ、誰かのために何かができてよかった。

もう一度スマートフォンが震えた。

『姉ちゃんも、話したい時とかいてほしい時とかいつでも言ってな』

私は泣きたいのに吹き出してしまった。クツクツと笑いが止まらない。さっきまでわんわん泣いていた弟の大人のような言い草になのか、あまりに嬉しいことを言われたせいなのか自分でもわからない。ベッドの上で震えながら返信を打った。

『了解、ありがと』

それから少し考えて付け加える。

『チョコおいしかった。また買ってきて。あと彼氏によろしく』

私はブランケットの中で丸くなってスマートフォンの画面を何度も何度も眺めた。胸がいっぱいでクスクス笑いながらどんどん涙が出てきておいおい泣いていた。こういうのはとても良いなと思った。素晴らしい夕方だったなと思い出して、またブランケットの繭の下で泣いて笑った。