toripiyotan

何回もおなじこと喋る

フルーツ[ショートストーリー]

(注意 鬱病など精神疾患に関する表現があります)

 

 

小さなノックの音がした。開けっぱなしの扉をそっと押す気配のあと真っ暗な部屋にペタペタという裸足の足音が広がった。

リサはベッドに近づくと丸いホイップクリームのような布団の塊にむけて小声で話しかけた。

「ただいま」

ホイップクリームはごそごそと動き、端から人の頭と濡れた黒い目を出した。

「ごはんたべた?」

黒い瞳がまぶたを閉じてかすかに頭を振る。

「痩せちゃうよ、痩せないでよ」

リサはそう言って無理やり布団の塊を抱き抱えながらベッドの端に横になる。

「ミナ、電気つけていい?」

布団の中からくぐもった拒否の声が返される。

「でもミナの顔見たい。スタンドだけにするから」

今度は布団の中から何も聞こえなかったので、リサはベッド脇の小さなナイトスタンドのスイッチを入れた。オレンジっぽいLEDライトがぽっと灯ってふたりを照らした。ミナが布団から顔を出してリサを見つめた。頬に涙の跡があり目も腫れていて唇は噛みすぎて赤くなっているし、髪はボサボサだ。リサは手櫛で軽く整えてやる。そのままでも愛おしいことに変わりはないけれど、触れるための口実だ。こういうときのミナは触れたり触れられたりすることに神経質になっているから。

「ごめんね」

ミナが呟いた。

「ん?どうして?」

「なんにもしてないから」

「わたしだってしてないよ。晩ごはんも冷凍パスタ買ってきちゃった」

「すごくつらくて……

「うん」

リサは、そんな日もあるよ、という言葉を飲み込んだ。最近のミナは「そんな日」が続いているし、それを当事者ではないリサが口にすれば風に舞うペラペラのポリ袋くらいの薄っぺらさでミナの耳に届くだろう。代わりにベッドの上で布団の塊になっているミナにもっと密着して回した腕にもっと力をこめる。

「あした起きれたらフルーツ買いに行こうよ。ちょっと行ったところに変な八百屋があったじゃん、すごいセレクトショップみたいな店構えの。木箱に英字新聞とか詰めてて、大根がそこにきっちり立ててディスプレイされてるの」

ミナは布団に顔を埋めて押し殺した笑いを漏らした。リサの胸に温かい喜びが広がっていく。

「ぜったいロゴ入りの紙袋とかに入れて渡されるよね。前通りかかった時はチラッと見ただけだけどさ。フルーツいま何が旬なんだろ」

リサは旬なんてものにはまったく無知なのでひたすら知ってる果物の名前を上げていく。スイカ?いちご?パイナップル?りんご?桃?メロン?みかん?ドラゴンフルーツ?

その度にミナがクツクツと喉で笑っている。リサに本当に当てるつもりなんかない。ミナを笑わせる可能性が少しでもあるなら何時間でも知っている限りの果物を挙げ続けるだろう。

「ブルーベリー」

ミナが微笑んで言った。

「ミナ何でも知ってるね」

「でも売ってるかは分からないよ」

「なかったらお高くとまってる大根を買おう」

リサはミナのおでこにキスをしてそれから唇にもすこし遠慮がちにやさしく触れた。ミナはようやく布団から両腕を出して自分を抱きしめているリサの背中に手を回した。

「でも、行けるか分からないよ」

リサの顎の下でミナの声が震えた。リサはワイシャツの胸が濡れたように感じた。ミナが泣いているのだろう。

「いいよ。そしたらわたしが証拠写真撮ってきてあげる」

「こんなこと続けなくていいんだよ」

今度はリサが泣きそうになった。ぎゅっと目をつぶって息を止めて急に襲ってきた悲しみをやり過ごし、息を吐く。

「いてほしくないならいなくなるけど、いさせてよ」

苦しい思いをしているのはミナなのだから平静を装うつもりだったのに、リサの声は自分で狙ったほどしっかりしても明るくもなく、ほとんど懇願していた。

「わたしといるとリサまで暗い気分になるよ。良くなるか分からないんだよ。ずっとリサがわたしのお世話するばっかりになってるじゃん。わたしリサの迷惑になりたくない」

リサはミナのあちこち向いて乱れた肩までの髪を撫でながら考えをまとめて慎重に言葉を選んだ。わたしはいまミナに捨てられようとしているのか、という恐怖を黙らせて心のロッカーに閉じ込め鍵をかけてゆっくり口を開いた。

「ミナ、付き合う前に飲み会でわたしがめちゃくちゃ酔っ払ってトイレで吐いたとき汚れないように髪を押さえててくれたこと覚えてる?そのあとろくに歩けないし終電も逃したわたしのこと連れて帰って泊めてくれたことは?転職のとき自己アピールの内容ほとんど考えてくれたことは?誕生日に旅行企画してくれたのにわたしが食中毒になって行けなくてずっと家のトイレにこもって泣いてたとき付きっきりで看病してくれたことは?

愛するってがん保険の審査みたいにはできてないんだよ。この病気になったからダメなんて基準はないし大変だからやめるはずなんて決まりもないの」

「でも……

リサは頭を振ってミナの言葉を遮って続けた。

「もし本当にわたしも暗い気分になるならわたしもセラピーに通うからそれでいいでしょ。お願いだから今わたしを捨てるのはやめて。また今度にして」

ミナは顔を上げて驚いた目をリサに向けた。

「捨てないよ」

「よかった」

それからスウェットに着替えたリサとスウェットのままのミナは手を繋いで寝室から出て、リサの買ってきた冷凍パスタを温めて食べ、ソファでくっつきあって小さなテレビ画面で古いコメディ映画を見て過ごした。ミナはリサの肩に頭をもたせかけ、リサはミナの瞼に何度もキスをした。ふたりともこの瞬間が永遠に続けばいいと思った。