my baby[ショートストーリー]
※注意 暴力および性的な表現があります。
彼がバーに入ってくると店の空気が一変する。あたしはその瞬間を見るのが好きだ。そしてその男があたしを見つけて片方の口の端で微笑みながら近づいてくるのも。
「やあ、ベイビー」
彼はあたしにキスをしてバーテンにウィスキーを注文する。一杯目を一気に煽ってすぐ次を注がせて、あたしのほうを向いてその真っ黒な目で上から下まで撫で回すように眺める。 あたしはそんなことにはちっとも気づいてないふりで彼に聞く。
「それで今日はどんな日だった?」
「退屈」
いつもと同じ答え。こんなところでこんな時代にどんな面白いことがあるんだろう。
「お前は?」
「いい男とバーで出逢ったらよくなるかも」
あたしが肩をすくめながら言うと彼がワイシャツの襟から指先を入れてあたしのうなじから首筋をそっと撫でてくる。
「いい男?」
彼がからかうように囁く。微笑まずにはいられない。
二杯めのウィスキーも飲み干して彼は店の奥のトイレに行く。細身の体にレザーのジャケットがセクシーであたしはその背中を満ち足りた気持ちと焦燥の混じった快さで見送る。それなのに彼の後ろ姿とあたしの間ににやけたスーツ男が割り込んでくる。
「まるでビューティーアンドビーストだね」
高そうなネクタイをゆるめて酔って潤んだ目であたしを品定めする男にいらいらしつつもあたしは挑発に乗る。おもしろいことになりそうだと直感が囁いてくる。
「どういう意味?」
ツンとしながら半眼で相手の薄い色の目を見ながら自分のビールのボトルを咥えてひとくち飲む。こぼれてもいないのに舌先で口の先を拭う。その仕草はしっかりその男の興味を捉えたようでちょっと眉をあげて反応する。
「彼まるで落ちぶれたチンピラみたいじゃないか、それに比べたら君はこの店の誰よりもゴージャスだ」
褒められるのは嫌いじゃない。だけどこの後の展開のほうがずっと楽しみだ。だからあたしはわざと楽しそうに声をあげて笑う。
「まるでほかにふさわしいひとがいるみたいな言い方だね」
その男はあたしの顔にほとんど触れそうなくらい身を乗り出している。あたしの細身のスラックスの腿に大きくてあたたかい手を乗せている。
「君にその気さえあれば」
あたしも身を乗り出してその男の乱れた金髪に息がかかりそうな距離で教えてやる。
「あたしは今世界一最高の男と付き合ってんの。失せな」
誰かがなにかを言うよりも先にその男はあたしの視界から消えた。後ろ向きにスツールから引っ張り落とされてフロアに仰向けに倒れものすごい音がする。あたしを口説いていた男の後ろから戻ってきた彼が今は男に馬乗りになって殴っている。店の中は他の客たちのうるさい悲鳴で騒がしい。拳と拳の間にその男がなにか謝るようなことを言おうとするが断片的すぎてなんのことかわからない。しまいには舌を噛んでうめくこともできなくなった。彼のパンチは容赦がなくてどんどん顔の形を変えていく粘土職人みたいだ。そこらじゅう血だらけで真っ赤になっている。あたしはスツールの上からビールをちびちび飲みながらその美しい作業を鑑賞する。彼のジャケットは黒いけれど中のタンクトップが返り血で汚れていて少し心配になる。それにその男ももう動かなくなってしまってつまらない。
「大丈夫か?」
ようやく彼がその男を離してあたしのほうに向き合い心配そうに頬を撫でてくる。あたしは彼の首に両腕を回して彼の唇を奪って思いきり舌を絡ませる。ウィスキーとタバコの味がする。
「帰ろう」
散らばった椅子やテーブルを避けながらあたしと彼はお互いの腰に手を回して並んで店を出る。彼からキーを受け取ってピックアップトラックに乗り込みあたしが運転する。ほとんど酔っていないのに興奮が突き上げてくるせいで安全運転なんて気にしていられない。少なくとも2回は赤信号を無視して家についた途端に彼の服を破かんばかりに剥がし尽くした。
唇にキスをして首のタトゥーにキスをして彼の上に乗ろうとしたらひっくり返されてあたしが下になる。
「ゆっくりいこう、ベイビー」
真っ黒の目があたしのすべてを吸い込む。肌を這う彼の舌とその端のピアスの金属がふたつの違った快感をあたしに与えてくる。呻き声をあげると彼は嬉しそうにくすくす笑う。その笑い声であの男の血だらけの顔が浮かんでさらに興奮する。殴り続ける美しいあたしの男と、退屈なスーツを着たつまらない優男の変形した顔面。
ふたりでいるといつも最高だ。なにも悪いことなんか起きない。なにもかも美しくて楽しくて世界一幸せ。彼の唇があたしのおなかを越えて下半身に向かっていく。身を捩りながらカーテンの向こうのあの青と赤のぴかぴかしているライトはなんだっけとぼんやり考える。だけどなんだっていいや。あたしには最高の男がいて、ジンのボトルが一本、コンドームもたくさんで、ナイトスタンドには銃もあるし。なにがあっても大丈夫。あたしたちを引き離せるものなんかない。