toripiyotan

何回もおなじこと喋る

雨が上がりました

雨雲の到来とともに、二日ほど活動できなかった。その直前に、獣医からちょっと理不尽に叱られてストレスを受けたし、疲労も溜まっていたしで、ずっと眠り続けていた。くわえて、Netflixで見たドキュメンタリーが良く出来すぎていて、登場人物のメンタルヘルス事情に引きずられてしまい、ますますもう動けませんな日を過ごした。お薬を飲んでいるから、以前のようなもう二度と回復などしないような恐ろしい出口の無いお化け屋敷の中みたいな気持ちにはならなくて済んでいるけれど、それでももう終わらないのではないか、今度こそまた良い調子になんかならないのではないか、風呂にも入れないし、ごはんもクッキーしか食べられないし、などとうじうじ考えながら散らかった床にゴロリとしていた。今日になり、雨雲が去って、日がさして明るくなり、気温も気圧も落ち着き、そしてわたしは風呂に入り、パン屋に行って惣菜パンを買って食べた。物事は終わりがなさそうに見えても終わり、変わらなく見えても変わり、良くなったり悪くなったりそしてまた良くなったりするものだ。そのことをすぐに忘れてしまう。覚えていても信じられなくなってしまう。特に、長い長い停滞のなかでぷかぷかとどこにも動かず浮かんでいるだけだと。船に積んでいる食べ物も水も渇れ果ててしまうのに、自分にできる手立てなどなにもなくて、ひたすらソワソワと歩き回るか絶望に囚われて石になり息をするのをやめるしかないような。けれど「それ」は大海原の上のボートではないし、わたしは地面の上にいるし、風呂くらい多少入らなくてもどうってことないし、なにも食べないよりビスケットくらい齧るならオッケーだし、雨に苦しんでも永遠に降るように気象というものはできていないし。何よりそういう最悪な気分になっているのはわたしだけではない。会ったことない人でも、話してみたら気が合わないかもしれない人でも、とにかく、誰かはいるのだ。この瞬間にも同じように感じて、くそったれな日常をなんとか生き延びている人が。だからどう、ということはないけれど、でもお互いに遠くから「わかる」「そっちもすぐ大丈夫になるよ」「しんどいな」「がんばろうぜ」ってシグナルを送り合いながらやっていこうな。すごいことなんかなにも計画しなくていいんだよ。わたしもキミも今日ちゃんと生き延びてこんな文章書いたり読んだりしている、できているってだけで本当にすごいことなんだから。十分立派だし、素晴らしいし、よくできましたよしよし美味しいものなんか食べて労りましょう。