早い夕食[ショートストーリー]
(注意 精神疾患の症状についての表現があります)
インターホンが来客を知らせると同時にドアに飛びついて開くと彼が 「確認もせずに開けると危ないよ」と言った。私は小言を無視する。上機嫌で「いらっしゃい」と言ってドアを押さえたまま彼が通り抜けられるだけのスペースを空けて部屋に招き入れる。至近距離で通り過ぎる彼を捕まえて玄関の壁に押さえつけたい衝動が掠めたけれどそれも無視する。極めて冷静を装い、スウェットに裸足のまま、勝手に客用スリッパを履いた彼のあとを追ってダイニング兼リビング兼仕事部屋へぺたぺたと進む。
「わあ、また派手だねぇ」
あまり驚いてはいなさそうなのんびりとした口調で彼が言った。私の部屋は多忙の末の二日間の徹夜作業のため散らかっていた。書類と校正紙と本と脱ぎ捨てた別のスウェットと空のペットボトルが散乱していて空気は澱んでいた。
「さっきまで仕事してて片付ける暇がなかったんだ」
窓を開けて初夏にしては冷たい風を入れながら私は弁解した。とはいえ別に悪いとも恥ずかしいとも思っていない。ソファの上から本と資料を下ろして毛布を丸めごろりと横になる。
「まだ忙しいの?」
「さっき終わった」
疲れていて解放されていて上機嫌だった。うずうずとしていてじっとしていられそうにない。
「夕飯つくるよ」
彼が言うのでぱちりと目を開けて時計を見た。午後4時。
「もう?」
「昼ごはん食べてないんだ」
「それは大変だ」
そういえば私もここしばらくはひっきりなしのエナジードリンクとチョコバーだけで燃料を入れていたのを思い出した。それと同時に急激におなかが空いて、部屋が雑多すぎて自分が不衛生なにおいを発している気がしてきた。
「シャワーを浴びよう!」
私がソファから飛び起きると、彼は笑ってキッチンに向かいながら
「強く推奨する」と言った。
唐突に再び、彼を寝室まで引きずっていって押し倒してのしかかりたい衝動に駆られたので、ばさばさと散らかった書類や本を適当な山に整えることでやり過ごした。自分のこの奔放な性衝動が他者との付き合いで不利に働くことがあるなどと彼と会うまでは思っていなかった。ほとんど全員が驚きながらも好意的に受け入れていた。面倒がなくて楽しい付き合い。しかし彼からは初対面で適当な暗がりに押し込んで彼の許可なくベルトの解錠作業に取り掛かったところで優しいが決然と「今は、まだだめです」と言われてからはそれを婉曲的な拒絶ではなく希望のある言葉として大変楽観的に受け止め、衝動をそのまま行動に移してしまわないよう努力している。
ペットボトルをゴミ袋に詰めたところでシャワーのことを思い出し、清潔なタオルと共にバスルームへ向かった。スウェットを頭から引き抜くときに何か健康的ではない獣のようなにおいがぶわりと鼻をついてギョッとし、急いで降りしきるぬるま湯の下に飛び込んだ。
髪が少し伸びて顎の下まで届いてくるくると巻いている。水に濡れると特にあちこちに向いてしまう。全身に石鹸を擦りこみ洗い流し、まだやわらかさを維持しているバスタオルで水分を拭って奇跡的に洗濯済みのタンクトップとスウェットパンツを身につけると、これ以上跳ね回りようのない髪を更にぐしゃぐしゃとタオルで引っ掻き回しながらキッチンに向かった。彼はこちらに背中を向けて野菜を切っているから、ドア枠に寄りかかって思う存分じっくりとそれを眺めた。
「見過ぎだよ」
後頭部にも目があるのだろうか。
私は近寄って肩越しに彼の調理の途中成果を眺める。わたしは彼と同じくらいの背丈だから、楽にちょいと肩に顎を乗せられる。
「ワイシャツが汚れるんじゃないの?」
私は自分のために買ったけれど使っていない黒のエプロンをキッチンの扉から取り出して両手の塞がった彼に着せてやる。自分にも何か彼のために世話を焼けるというのは良い気分だった。それにこのエプロンも活用できて嬉しい。かっこいいからの一点のみで買ったのに私はスウェットのまま料理しスウェットのまま食べすっかり汚してからもあまり気にしない。それに料理自体をほとんどしない。
紐を結んでから不意に気付いた。まだ夕方も早い時間なのに、彼は明らかに会社帰りの様子だ。髪もワックスで整えているし、一日の終わりでうっすら伸びているけれど髭も剃っている。
「仕事は?」
「行ったよ?」
「フレックス」
「イエス」
一体何時から出社しなければいけなかったのかは怖くて聞けなかった。代わりにワクワクとした気分のままに尋ねた。
「ごはんを食べたらどこか行こうか」
「どこか?」
「映画とか、バーとか。踊りに行ったりしよう。なんでもいいよ。楽しいこと」
私はじっとしていられなくて小さく左右にぴょんぴょん揺れながら言った。彼は湯が沸騰した鍋の蓋を開けながらまた笑った。
冷蔵庫を開けてビールを出そうかノンアルコールにするべきか悩んでいたところにけたたましく私のメールの受信音が鳴った。作業に集中していると重要な仕事の連絡さえ見落としてしまう。冷蔵庫を閉めて、パソコンに向かった。受信箱を開け、目立つように墨付き括弧で【至急】と件名に書かれたメールを開けた。無敵の気分は霧散し、私の内側に馴染み深い泥が戻ってきた。
どのくらいそうしていたのか分からない。喉に真綿が詰まってどんどん膨張していくような息苦しさと頭がぐわぐわ鳴っている感覚で時間も空間も遠くなってしまっていた。私は机の下でクッションに顔を押し付け、膝を抱えていた。いつもならキャビネットの奥に隠すように押し込んでいる安いウィスキーを瓶ごと煽って意識が無くなるまで酔うか、睡眠薬を多めに飲むか、よく知らない誰かとセックスをするか、その全部をまとめてやるかして乗り切るのだが、今はそうすることができない。机の下で、できるだけ小さく縮まっていた。左手を掴んでいる右手の爪が手首の内側のやわらかい皮膚に食い込んでピリピリと痛んでいた。
いつの間にか彼がすぐそばに来ていた。あぐらをかいて座り、私の右手に彼の右手を重ねている。親指でそっと規則的になでられている皮膚の心地良い感覚に集中する。
「どうした?」
彼の問いかけに答えたかったけれど言葉が出てこなかった。頭の中にはたくさんの何かが浮かんでいるのに、どれも言葉の形にならない。
「何も。大したことは何も」
うーん、と疑わしそうな唸り声に催促されたので、時間をかけながら私はもう少し説明を試みた。
「修正が入った。レイアウト変更。締め切りはそのまま」
「さっき終わったやつ」
「そう」
しかしそれも私の仕事のうちだ。校了したと思ったものに修正が入る。先方上司の鶴の一声で全レイアウトの組み直しや原稿の差し替え、週末に作業をねじ込んで月曜の入稿に間に合わせるなんて、これまで何度もやってきた。問題はそこではない。問題は私だ。
「大したことじゃなくても、急にこうなってしまうのが、いやだ」
仕事のメールなんかなんでもないことだ。いや実際、きっかけになることがなくてもそれはやってくる。最高の気分から最低の気分へ。無敵で世界と踊っていたのに、翌日はくしゃくしゃで水溜りに落ちた紙屑みたいに。
彼が椅子に引っ掛けていたパーカーを取ってわたしのむき出しの肩にかけてくれた。タンクトップ一枚でも寒くはなかったけれど、やわらかい布地に包まれた心地よさで喉を締め上げてくる想像上の真綿が減り呼吸が戻ってきた。爪を立てていた左腕には血が滲んでひりひりしていた。クッションから顔を上げると彼が尋ねた。
「いてほしい?帰って欲しい?」
「いてほしい」
同時に帰って欲しかった。ひどいことをしてしまいそうだ。嫌われて逃げられたら立ち直れない。それも当然だと思ってしまう。
彼の両手がわたしの顔を両側から包んだ。大きくて、水を扱ったせいでひんやりとしていた。心地良い手だった。私はそれに意識を集中させた。身の内から聞こえてくる耳をつんざく悲鳴を大変な労力で無視した。
彼はゆっくりと労るように私の唇へ柔らかいついばみのようなキスをした。
優しさがひたひたと沁み入ってきた。衝動も欲求もなかった。ただ心地よかった。苦しみがいくぶん耐えやすいものに思えた。
私を見つめる彼の目を見た。そのとき彼が、自分で言うほど単純でのんびりとした人間ではないことを悟った。細かく皺が寄っていて、思慮深くて、そしてたくさんの感情があった。たくさんの愛情が。
「なにか食べようか」
空腹はもう感じていなかったけれど、彼の気持ちを受け止めたくて頷いた。食べるべきだし、そうすればもう少しまともに考えられるようになることも分かっていた。
手のひらで目をぬぐって、彼に手を貸してもらいながら机の下から出てきて立ち上がった。彼はしばらく手を繋いだままいてくれて、それから一緒に夕食に取り掛かった。
まだ夕闇には遠い時間で、黄色っぽい西日がさすテーブルで彼が私のグラスに炭酸水を注いでくれたときビールじゃないのかと私は愚痴をこぼした。
彼は変な形に口を歪めてにやりと笑って、自分だけビールの泡をすすった。