toripiyotan

何回もおなじこと喋る

ペン[ショートストーリー]

デスクの引き出しからいつものボールペンが無くなっていることに古宮が気づいたのは午前の業務がひと段落した頃だった。

「あれ?」

雑然としたデスクの上をガサガサと漁り、どこかへ転がり落ちたのだろうかと机の下に頭を潜り込ませて確認する。しかし目に入ったのはプラスチックの屑籠と絡まり合ったコンピュータのコード、誰かが落とした飴の包み紙だけで、古宮の目当てのものは見つからない。

「どした?」

電話の受話器を顎と肩にはさんで相手側からの保留音を聞きながら別件のメールを打つなどという離れ業を演じながら隣席から同僚が尋ねる。

「いや、ちょっとペンが見つからなくて」

頭を打たないようにゆっくりと上体を戻しながら古宮がもごもごと言う。

「どっかそのへんに忘れてきたんだろ」

それだけ言って保留音の終わった電話に向かって話し始めた同僚にそうだとも違うともつかない曖昧なうめき声で返事をし、じっと考える。

それは取り立てて何ということもないペンだ。軸が木でできていること以外は特段値の張るものでもないし多機能でもない。つまり誰かが羨ましがってくすねることもなければ間違って捨てるようなこともない、目立たない、ふつうのボールペン。

古宮の勤めるオフィスは個室や仕切りもないフラットなタイプだし、手近なクリップや残業中の糖分を求めてひとの引き出しを開ける人間もいるのだから、ペンの一本くらい紛失しても不思議なことはない。ただ、大体いつも最後まで残るのは古宮であり、他人の机からチョコレートやガムを拝借するのも古宮であるから少し驚いてもいた。

(会議室にでも忘れたかな……)

特に不便があるわけでもないのに、小さく不快だった。そのうち出てくるだろう、と根拠のない期待で気分を振り払い、空のマグカップを持って給湯室へ向かった。

 

翌日の午後になっても、その「そのうち」はやってこなかった。定位置だった1番上の引き出しは10回以上さらったし、デスク周辺の床も、隣席の机の下も(迷惑そうな顔を無視して)確認したが影も形もない。会議室は隅から隅まで見たし、コピー機の横の印刷損紙入れをひっくり返しさえした。

おかしい。

オフィスから外に持ち出すこともないたった1本のボールペンが、こうも跡形もなく消えるものだろうか。

 

さらにその翌日になっても、古宮は木軸のボールペンを取り戻せずにいた。

自分の過失でどこかへ置き去りにしてしまった線は、もはや消えつつあった。自分の机とその周囲はもとより、通った可能性のある廊下や階段やトイレまでもしらみ潰しに探したのだ。あとは他の人間の手中にあるとしか考えられない。

オフィスの全員をひとりずつ呼び出して問い詰めたい気持ちを抑え、古宮はそれとなく少しずつ情報を集めた。

「ねえねえ、いずみちゃん」

「はい?」

人一倍お茶休憩の多い小柄で丸顔の事務員が給湯室へ向かう途中で古宮のほうに寄ってくる。手の中の空のマグカップは猫が大きな口を開けて牙を見せているイラストで、かわいいというより威嚇している。

「あのさ、ボールペン見なかった?軸が木になってて黒一色のやつ。どっかいっちゃったんだよね」

「あーいつも会議のとき古宮さん持ってるやつですか?ちょっと明るい色のですよね。先週のミーティングのとき使ってませんでした?」

「そのあと」

知らない、と言うところに重ねて、では誰かが持っているところを見なかったか、などとは聞けずありがとうと引き下がる。その日は34人をつかまえて尋ねてみたが、彼女以上に知っている者はいなかった。

 

古宮は会議が嫌いだった。好きな人間などいるだろうか?

木軸のペンは特別なものではない。物自体も、入手の経緯も。しかし自然と育まれる何かってあるだろう。長く組んでいる人と人の間にも、家や、道具にも。愛着と言えるほどのものでもないのだが、しかしその存在によって多くのことが少しだけ耐えやすくなる。

 

5日目の朝ともなるとさして大きくないオフィスでの古宮のボールペン捜索は全スタッフの知るところとなっていた。

「古宮さんまだ見つからないんですか?」

「変ですね、誰か間違って借りて忘れてるとかかな」

「ほら俺のペン貸してやるから泣くなよ」

各々が心配しつつもほとんど面白がって声をかけていく。どこかへ転がり消えた何の変哲もないボールペンを、ちょっと手が空くたびに腰をかがめて探し回っているのだ。滑稽に見えても仕方がない。

 

しかしこの紛失を全員が知るところとなり、いまだ見つかっていないということは……

古宮は不信感で胃がどんよりとした。疑いたくはないが、誰かが嘘をついているということだ。これまで彼らとはとてもうまくやってきた。話しやすく、仕事はスムーズ。それを台無しにして何になるんだ?たかがペンじゃないか。

たかが。

けれど。

 

夜にはすっかり諦めの境地に達していた。金曜の夜だというのに、ボールペン捜索に気が散っていた1週間だったせいで溜まっていた業務をようやく捌ききった時には、フロアには古宮のほか誰も残っていなかった。肩はがちがちに凝っているが、週末への解放感で上機嫌でさえあった。書類を揃えて重し代わりにテープカッターを乗せ、パソコンの電源を落としてマグカップを洗いに給湯室へ向かう。洗い物をカゴに伏せ、ガスの元栓やポットの電源が落ちているかを確認して電気を消す。消灯と施錠を確実にしなければ。休みにセキュリティから呼び出される可能性もある。

「よし」

ジャケットと鞄をとりにデスクに戻ろうとドアを開けると、無人のはずのオフィスに誰かがいた。

「真島?」

声をかけられて驚いたのか、真島は顔を上げた姿勢のまま硬直した。

「まだ残ってたんだな。どうした?営業忙しいのか?」

同じクライアントを担当したこともあるが、営業部の後輩にあたる真島と制作部の古宮には接点も交流もない。なぜこんな時間にここにいるのかと近寄りながら訝しむ表情を読んでか、真島はハッと身を引いた。そこで唐突に、それが古宮の目に入った。

 

木軸のボールペン。

 

「それ

ぐにゃりと、混乱が古宮の胃に乗しかかってくる。

その言葉に栓を抜かれたように真島が口を開いた。

「すみません!あの先週の会議のあと古宮さんがペン忘れてるの見つけて拾ってしまって!泥棒するつもりじゃなかったんです!ただちょっと渡すタイミングっていうか、すぐ渡せばよかったんですけどでも古宮さんいつもこれ持ってるよなぁっておもったらちょっとだけ持ってたくて、あっストーカーとかじゃないんです!ただいつ話しかけようって機会伺ってたらどんどん話がみんなに広がっていっちゃってて」

 

目を伏せて必死に弁解をする真島は、羞恥と不安でワイシャツの襟元まで朱が差していた。ペンを見つめながら黙って聞いている古宮の中で、喪失と再会の混乱した苛立ちは一瞬燻ったのちにすっかり冷えて静まってしまった。あんなに探し回って、同僚たちを疑いさえした原因は、夜の蛍光灯の下でくすんだ色をしてコロリと転がっている。あまりに小さく、凡庸だった。

たかがペンじゃないか

 

古宮は真島が置いたボールペンをそっと持ち上げ、1番上の引き出しを開けると定位置に置き、引き出しを閉めた。自分の1週間を思い出してふふっと自嘲の笑みを浮かべる。椅子の背からジャケットを引き抜いて袖を通しながら、ぽかんとして突っ立ったままの真島の目をまっすぐ見て言う。

「もういいよ。仕事もうおわったのか?夕飯に付き合え」

真島は弾かれたようにこくこくと頷くと「鞄とってきます!」と言って弾丸のように去って戻ってきた。

真島と並んで無人のオフィスの蛍光灯を消して施錠しセキュリティロックをかけながら古宮はくつくつ喉で笑うような声を出す。

「それにしても。ひとが本当に真っ赤になるところなんか、初めて見たよ」