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何回もおなじこと喋る

MM小説とショウペンハウエル

文学も日常生活と同じである。どこへ向かっても、ただちに、どうにもしようのない人間のくずに行きあたる。彼らはいたるところに群をなして住んでいて、何にでも寄りたかり、すべてを汚す。夏のはえのような連中である。だから悪書の数には限りがなく、雑草のように文学の世界に生い茂っている。

悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

 

上記はドイツの哲学者ショウペンハウエル『読書について』からの引用である。

今よりも若い頃に読書の仕方について色々と知りたかったわたしはショウペンハウエルのこの本と出会い、以来ずっとここで語られる「良書を読め」を信じてきた。つい先日まで。

 

友人の薦めで翻訳MM小説を読んだ。いわゆるBLに分類されるが、性指向がゲイの男性が主人公で展開されるロマンスやミステリー、サスペンス、ドラマなどの小説のことである。これまでほとんど読んだことはなかったものの非常に面白くすっかりハマってしまい、似たようなジャンルの本(残念ながら翻訳作品はあまり多くない)を次々に買い求め読破した。遅読で飽きっぽく読み差し本を積み上げて部屋を圧迫しているこのわたしが、1冊につき4〜5時間、つまり半日のうちには読み終えてしまうのである。これまでこのスピードで読み終えることができたのはファンタジー児童文学だけではなかったか。わたしにとってのページターニング作品のジャンルにMM小説が加わった。

そしてこの猛烈読書、思わぬ作用をもたらした。これまですぐに栞を挟んでいたような難解な本への集中力も増したのだ。

ショウペンハウエル先生にしてみれば大衆小説の、それもロマンスだのミステリーだのは噴飯物の悪書であるだろう。しかしショウペンハウエル先生がぎりぎりにでも認めてくれそうな哲学書などを、わたしは30分と読むことができないし、ましてや読了となれば5年はかかる。良書だけと付き合うのは、良書との付き合いをむしろ停滞・悪化させるのではないだろうか。

 

良書の定義はあいまいだが、入門書もそこには含まれそうにない。哲学書についての簡便な解説、いくつかの文豪の作品の時代背景と登場人物たちが図画化された記事、生涯学習学校の教科書など。しかしそれらはわたしたちに「浅い全般的理解」を与えてくれる。それに「文字を情報に変換して理解するスピード」も。これは良書だけを無理にでも必死に一字ずつ追っているときには手に入らないものだ。ページターニング本が呼び水となり、より難解な活字情報の読み解きがそれ以前よりも易しくなる。急にフルマラソンを走る人などいないだろう。大衆小説や入門解説書はほんの2kmほどのスロージョグみたいなものだ。それだけでも楽しいし、その先を乗り越えやすくもしてくれる。

 

しかしショウペンハウエルも一理ある。悪書はいくらでもある。それは間違った情報を拡散する本だ。あるいは論証の不完全な本。ただでさえ苦しんでいる誰かをさらに追い詰めるようなイメージを植え付ける本。

このブログを書く前、わたしは『読書について』との訣別を考えていた。ショウぺンハウエルは間違っていた!と言うつもりで。けれどどうだろう、彼が当時想定していたこととは離れるだろうが、良書と悪書の境界を引き直すのだ。専門書の中にも一般書の中にも良書が、悪書が、そしてその間のものが大量にたゆたっている。何をつかみ、どのようなつもりで何を読み、それをどう判断するのかは完全にひとりひとりの読者に委ねられている。

今後とも良書を読もう。学問的価値評価やジャンルや種類に拘泥することなく、幅広く、しかし良書を読もう。