toripiyotan

何回もおなじこと喋る

過去に書いた創作のリンク[ショートストーリーズ]

2015〜あたりに書いたお話たちのリンクです。

Tumblrからnoteへ、そしてwordpressへと居住地を移動してきたのでいつ頃のものかあんまりはっきりしない。

何かが大きく変わったわけでも熱心に練習したわけでもないのにやはり最近のものより過去のもののほうが稚拙さが目立つのは何故なのか。たんにわたしの思い込みか。

興味がおありでしたら下記のリンクから!

下に行くほど比較的新しいです。

 

 

年越しtoripiyonotes.wordpress.com

うどん屋のそばで年越しする話。

 

晩餐toripiyonotes.wordpress.com

カレーを食べながら失恋を飲み込む話。

 

じどっこtoripiyonotes.wordpress.com

ひとりでぶらっとドライブした土地でたまたま入った飲み屋さんがおいしかった思い出+友達に勧めたらその子も行ってみてやっぱり美味しかった思い出からできた話。

 

toripiyonotes.wordpress.com

いくつかのキーワードをもとにフィクションを書く課題のために書いたもの。男が思いつきで福島に行って桃買うだけの話。

 

swaytoripiyonotes.wordpress.com

わたしの好きなアマチュア芝居プロジェクトのこと思って好き好き込めて書いた話

 

あけぼのtoripiyonotes.wordpress.com

サンドイッチ作る話。

 

 

 

 

Vihaan[ショートストーリー]

※注意※   人身売買、児童虐待性的虐待、殺人に関わる表現があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地平線の端がオレンジ色に染まり、ようやく夜の藍が白く薄らんだ頃、掃き清めたばかりの戸口に彼は現れた。

「あなたが交換商か」

私はちょうど朝の熱い茶を淹れようとしているところで、そうだと頷き椅子を勧めた。彼は狭い店内の暗がりに滑り込むように腰掛け、私は茶の用意をしながら彼を観察した。とても若く少年と言ってもいいほどにも見えるが纏っている雰囲気は円熟していた。祭り女のように胸からサンダル履きの足首までを真っ白の衣で包み、剥き出しの細い肩と剃り上げた頭は鮮やかな赤に金糸の刺繍を施した透ける紗の大きなショールで包んでいた。私は先入観を持たないように努めたが、大金持ちのための男娼だろうかという感想を抱かないことは難しかった。

私は湯気がやわらかく立ち上る取手のない小さなカップを差し出しながら尋ねた。

「それで、どのようなものの交換をお望みでしょう」

彼は金魚が尾ひれを振るような弧を描いで茶器を手に取りながら尋ね返した。

「……どのようなものでも、交換していただけると聞きました」

「ええ、その通りです。どのようなものにも対等の対価を。納得いただけなければ無理に取引させることもありません」

「僕には、僕の物語しかありません。これを交換したい」

時に遠方の国からの旅人や古老が情報や昔話を売って行くことはあっても、若者からこのような申し出を聞くことは珍しく、私は素直に驚いた。

「構いませんが、必ずしも値打ちのあるものと交換できるとは限りませんよ。そしてそれは聞かせてもらわなければ判断できない。あなたにとって有利な取引になるかどうかも分からない」

彼はきゅっと目尻の上がった細いアーモンドのような目をこちらに向けた。朝日が射して瞳は灰色に透き通っていた。

「あなたが妥当だと思うものとの交換で結構です。何の価値もないと思われれば僕はただ黙って引き取ります」

少し反り上がった厚い上唇を軽く開き口角をわずかに上げて彼は微笑んでいたが全ては熟練ゆえの妖艶さであり、私はその後ろに必死な少年の顔を見た気がした。価値のある話かどうかを判断するよりも前に、私は彼の話を聞かなければならないと本能的に感じたのでこの取引を受けることにした。

私が交換の契約のために左手を差し出し、彼の右手と重ねお互いの手首を掴み合った。彼の右手の甲には、奴隷の刺青があった。

「それでは交換の精霊に誓って、あなたと公正で誠実な取引を行いましょう。どのような物語をいただけるのでしょうか」

 

─────────────────────

 

僕は自分の生まれを知りません。最初の記憶は路上で兄弟たちと物乞いをして駆け回っていました。とはいえ彼らが本当に血の繋がった兄弟かは今では分かりませんが。次の記憶は同い年くらいの大勢の子供たちと箱詰めにされて何日もぐらぐらと揺られながら海を渡ったことです。家畜の選別と同じように体のあちらこちらを触られ覗き込まれ数人が選び取られました。選ばれなかった残りがどうなったのかは知りません。僕を含めて3人は大人の男たちに引きずられて大人の女たちに引き渡され、体を洗われ毛を抜かれ爪を切られ船の甲板よりもゴシゴシと磨き上げられました。僕たちはたいてい暴れて抵抗しましたがそのたびに男たちからも女たちからも殴られました。僕たち3人はこれまで着たこともないほど……とはいえ当時の僕にとってはどのような服であってもそう感じたでしょうが……清潔な麻のシャツとズボンを着せられ大きな館に連れて行かれました。鉄の重厚な門が開くと美しい花の咲き乱れる前庭が現れ、その楽園のような様に驚いたことを昨日のように思い出せます。それから呼び鈴の音、意匠を凝らした玄関ドアの美しさ!なにもかもが別世界で僕たちはどきどきとしていました。なにか特別良いことが起きたに違いないと思い、またこれからもとても良いことが起きるに決まっていると顔を見合わせてにやっと笑い合いました。僕たちはつるつると反射する寄木作りの廊下を進み巨大な部屋に通されました。今ではその館の中で最も小さな玄関横の靴を履くための部屋であることを知っていますが、その頃にはこれまで見たことあるどんな家よりも広く豪華に見えたのです。そこで立って待っていると、ひときわ着飾った男がやってきました。これまで僕たちを殴ってこづいてきた男たちとは全く違います。口髭を整えていて、レース飾りのあるシャツを着ていて、靴はピカピカに輝いていて、手の指には宝石のはまった金の指輪をいくつもはめていました。その男は僕たち3人をじっくり舐めるように眺め、目の色を覗き込み、なにか声を出すように言い、僕たちを連れてきた男たちになにか確認して、それからまた僕たちを眺めました。それから「よし、この子供にしよう」と僕を指さすとさっさと踵をかえしていなくなり、男たちは僕を除く他のふたりを連れて出て行ってしまい僕は部屋にひとり残されてしまいました。きっと良いことがあるに違いないという期待はとうに萎んでいました。僕はその頃6つかそこらでしたが、自分が買われたのだということは理解できました。おそらくひどくこき使われることになるぞと予感していて、そしてそれは当たりました。しばらく立ったまま待っていると身なりは整っているけれど固い表情の知らない女たちがやってきました。僕はまた湯に入れられゴシゴシと磨かれ、抵抗すれば叩かれ、手に刺青を入れられました。しかし食事は十分に与えられ、暖かく清潔な寝床を与えられました。僕はひょっとするとこのまま良いことが続くかもしれないと、不安を無視し始めました。しかし1~2週間ほどそうして過ごしたあと、ある日の湯あみで女たちから念入りに香油をすり込まれ顔に粉をはたかれ、これまで着せられたものよりもはるかに上等のやわらかいシャツとズボンを着せられました。僕はどうしてなのか尋ねましたが誰も口を聞きませんでした。彼女たちはそれまでも僕と話すどころか目を合わせようともしなかったので僕は諦めました。それから館の廊下を案内の老いた男のうしろについて長く歩きました。そこは館の最深部であり、館の主人の主寝室でした。老人は扉を叩き、開けて、僕を押し込むと閉めました。その部屋で僕は最初の日に見た口髭のある男とふたりきりでした。彼は初めのうちは僕に果物をすすめたり、館には慣れたかどうか尋ねたりと親切そうに振る舞いました。僕は最初は緊張と警戒から固まっていましたが徐々に果物を齧ったり彼の膝に座ったりするようになりました。彼は、自分は僕の主人なのだ、言うことをきいて良い子にしていれば悪いことはなにも起きないと言いました。僕は頬を撫でられながら頷きました。どうにも居心地が悪くなっていましたが彼は離しませんでした。彼は自分は宰相なのだ、宰相とは何か知っているかと聞きました。僕が知らないと言うと彼はとてもおかしなことを聞いたように大声で笑いました。それから僕のシャツとズボンを脱がせて裸にしました。彼は僕をベッドのマットレスに押しつけました。僕は何が起きているのかわかりませんでした。肛門に激痛が走って悲鳴を上げると彼はとても楽しそうに笑いましたが、あまりにいつまでも叫んでいると言って殴りました。僕は分厚くやわらかいシーツを噛んで痛みと混乱に耐え、夜明け前に解放されました。そういったことは毎日なこともあれば何週間も放っておかれることもありました。僕は彼に快楽を与えることを少しずつ覚えました。そうすれば殴られることはずっと少なくなるからです。それでも彼は自分の快楽のために僕を傷つけるのを好みましたから常に苦しみから逃れられたわけではありませんが。僕は彼を憎んでいましたが愛しているふりをしました。そうするとその館での日々はずっと耐えやすくなりました。僕が大人しくなったので僕の世話をする女たちもそれまでほど頑なではなくなりました。ひとりの中年の女などは僕に簡単な読み書きを教えてくれました。彼女は自分の子供を亡くしたばかりなのだと言っていました。しかし僕がようやく数の記し方を覚えた頃に彼女はいなくなりました。館のどこを探しても見つかりませんし僕の湯あみや磨き上げにあたる女は別の若いもっと固い表情をしたひとに変わっていました。きっと辞めさせられたか、死んだかしたのだろうと思いました。僕はまた黙ることにしましたし、周囲の世話をする人々も黙りました。そのようにして僕は何年もの時間を館で過ごし成長しました。時にはほんの短い間なら市に外出することも許されました。しかし僕には行く宛も訪ねたい人も必要な物もありませんでしたし、主人もそれをわかっていました。むしろ喜びよりも苦痛を味合わせるための許しだったのかもしれません。ある日、彼は僕の背が急に伸びたと文句を言いました。確かに僕は成長期に入り、やわらかさよりも骨張った硬さが目立つようになっていました。食事の量を減らされ運動量も制限されましたが自然の成長には逆らえずひょろひょろと次第に主人の背丈に届くほどになりました。これは昨日のことですが、彼はそろそろまた子供を買おうと思っていると言いました。近頃では彼は僕にそういった秘密を打ち明けるようになっていたのです。かつての僕のような子供を買ってきて今度は僕がその子供に必要なことを教えてはどうだろうかと言いました。僕が彼の目をじっと見つめると心配しなくても僕を手放すつもりはないから安心しろと言いました。僕はほほえみ、ベッドを出て水差しの横の果物かごからプラムをひとつとナイフを取って戻りました。裸の彼の胸に馬乗りになると僕は彼の口にプラムを近づけ彼はそれに答えるように喉をそらせ口をあけて齧り付きました。僕はそのままプラムを彼の口の中に押し込むと喉笛にナイフを突き立てました。抜いてまた突きました。何度も何度も刺すと彼が息をしようとするたびゴボッゴボッと血が吹き出しました。僕は次に腹を刺しました。めちゃくちゃに何度も何度も刺しては抜いて、血と肉の欠片が飛び散りました。彼のご自慢の股間にもナイフを突き立てそこになにかあったことなどわからないくらいずたずたにしましたが、その時にはもう彼は目を見開いて口からプラムの果汁をだらしなく垂らしたまま息絶えていました。僕は寝台から降りると真新しいシーツで返り血だらけになった自分の体を拭いて、手洗い盆の水でしっかり顔を洗ってぬぐいました。それから裸のまま主人の寝室から出て、長い廊下をひとりで戻り、自室で水浴をしました。この後をどうしようかと考えたときに、僕に読み書きを教えてくれた女が交換商の話をしていたのを思い出しました。館の者たちはみんな主人が”戯れ”の翌日は日が高くなるまで人を寄せないことを知っているので誰に見咎められることもなく僕は表の門から出ました。そうして市の最も奥まったハンノキのある路地の交換商のあなたのもとへ来たのです。

 

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目の前の赤い紗を被った少年は語り終えるとぬるくなった茶を啜った。もうその顔に卓越した怪しい誘惑者の色はなかった。ただ自分のしたことに怯え、これからのことに怯え、これまでのことに苦悩している子供だった。私の中では様々な感情の嵐が起きていた。混乱し泣き叫び呪い許しを乞いたい思いがした。しかし何になるだろう。私は自分の左手がいまだに彼の右手首を掴んでいることに気づき取引の最中であることをようやく思い出した。

「なんと……なんという壮絶な物語でしょう。わたしには……それと同等に値打ちのある物は残念ながら持ち合わせていません」

私はつかえながら言った。彼は目を伏せて微笑んだ。

「わかりました。いいのです、僕は」

「なので、あなたの物語にふさわしい交換は、わたしからの物語でいかがでしょうか」

私は彼が言葉を終えるより先に続けた。彼は顔を上げた。用心深く私を見て、最後には頷いた。私は自分の茶をぐいと飲み、少年の目を見て低い声でゆっくり語った。

 

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「あなたは自分と、他のどこかの子供たちを守るために戦った。そのことで精霊も神も誰であろうとあなたを罪に問えない。しかしあなたはこの街を離れるべきだという私の助言を聞きいれる。私はあなたに名前を変えて……そう、ヴィハーンと名乗るように言う。これから渡す粗末で少し大きすぎる市井の誰もと同じようなシャツとズボンに着替える。それからわたしから少しの銀貨の入った袋を受け取りさようならを言う。この店を出てすぐ右に折れ三軒目左側の彫物師のところで『交換商との取引だ』と言いその右手の刺青を加工してもらう。そして何か食べ、どこか安全な場所…寺院の中で少し眠る。日が落ちて月が出たら街の東側から海側の城壁の外の狭い階段を降りていく。いちばん下に小さな渡し船と船頭がいる。船頭は実直で信頼できる者でここでもあなたは『交換商との取引だ』と言う。あなたは船に乗りこみ海を越えて隣国に入る。夜明けまでには港町に着き、そこではあなたのことを知る人は誰もいない。あなたは市場で仕事を探す。港町ではあなたのような小間使いの青年はいくらでも必要だからすぐに仕事はみつかる。あなたは文字の読み書きができて物覚えもよいのですぐに見習いの商人となる。やがてあなたは信頼できる人と信頼に値しない人を見分けるようになる。はじめは戸惑うがやがて人を愛することがどういうことなのかわかるようになる。あなたはいつか自分の船を持ち立派な商人になり世界中の海をまわる。あなたはある日いかに交換商を訪ねた夜明けから遠くに来たかを思い、苦しみは遠くの景色のような存在となり、幸福だと感じるようになる」

 

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私は語り終え深呼吸をした。そして尋ねた。

「いかがか」

少年は灰色の左目から涙をひとつぶ落とした。

「たいへん結構です」

私は自分の無力さに胸が張り裂けそうだった。細い炭を持って彼の右手の甲に線や円を細かく書き足して奴隷の印を簡単な太陽神の紋様に変えた。

私は店の奥の小部屋の箪笥から着古された麻の上下を持ってきて彼に渡した。彼がショールを脱ぎ捨て動きやすいシャツとズボンを身につける間、私は小さな革袋に使い勝手の良い幾らかの銀貨と銅貨を入れて彼に渡した。

「気をつけて」

私は2つの意味を込めて言った。革袋をうっかり盗まれないようにと、これからの旅路についてと。

彼はもはや金持ちのための男娼には見えなかった。精悍な顔をした貧しいが賢そうな青年の風貌になっていた。長い間生き延びるため身につけた妖艶さは脱ぎ捨てた服と共に剥がれ落ちたようだった。

「ありがとう、物語を」

ヴィハーンが言った。

「さようならヴィハーン、私にはもったいない取引だった」

「さようなら」

彼はそうして店を出ると右に折れ、その姿は見えなくなった。

「ずいぶん早くからお客さんが来ていたんですね、先生」

いつからいたのか店の外のベンチには長い髪を背中へ一本の編み込みにして垂らしているアジャが座っていた。アジャはいつもこうして店の外のベンチに座っている。私の用心棒だと言って聞かない。

「話を聞いたかい?」

私が尋ねると心外そうにアジャが答えた。

「いいえ。どなたですか」

「彼はね、歴史的な悪魔を殺した青年だよ」

「それじゃ英雄ですね」

私はアジャの率直な感想に目を細めた。

「彼はそうは思っていないだろうね。どれほどの人がそれによって救われようとも、彼はやはり悪魔を殺した手触りを感じた本人なのだから」

堪えきれなくなった涙が私の両眼から伝い落ちた。私はアジャに気づかれる前にサッと手のひらで拭い取った。彼の手首のあまりに細い骨の感触がまだ左手に残っていた。

私は室内に戻ると彼の置いていった紗の赤いショールと柔らかい布をたっぷり贅沢に使った白い衣を持って表に出てゴミを焼いている大きな鉄の缶の中へ放り込んでマッチを擦った。アジャがあっと声を上げた。

「もったいないな、売ると店がもうひとつ買えますよ」

「店はひとつで十分。高価であろうと呪われたものを無闇に他人に押し付けるものでもありませんからね」

金糸がパチパチと火に飲まれていくのを見ながら私は言った。アジャは神妙に頷き、炎によって清められていく衣類とそれを見守る私を見ていた。

「アジャ、さあレモン水を飲みに行こう」

私たちはいつも通りに動き出した街の中へと入っていった。

 

 

The meaning of Vihaan is ‘dawn’ or ‘sunrise’ It comes from a Sanskrit word and is also synonymous with ‘first ray of sun’ and ‘the beginning of a new age'.

ずっとじんわりと悲しい

注意 精神疾患の症状について話します。

 

 

先週は酷かった。

全ての症状が戻ってきて自傷行為も2度ほどしたが、それもこれもどうやら回復のために変えてもらったSSRIが致命的に合っていなかったようで、前の薬に戻してもらったら落ち着いてきた。

ついでに壊していた腹具合も治まった。

だけど心の底の部分にいつも湿った沼地があって寒くて暗くてジメジメしていて悲しい。

それもごそごそとカエルや羽虫の幼生やトカゲやカニなんかでいっぱいの生命溢れる沼地じゃなくて、凍りそうなほど冷え切っていて完全に汚染されているから鳥の声もザリガニの身じろぎも聞こえてこない。そういうやつ。

そういう場所がみぞおちの中にいつもある。

それをよっこら抱えたままどうにか皿を洗ったり洗濯物を畳んだりする。

長年まともに精神疾患の治療をせずに無理やり気合いで「普通の暮らし」に臨んではブレイクダウンを繰り返したせいでもう訳の分からないことでパニックを起こしたりするようになってしまった。

加えて香害のこともある。

どこに行っても、どこにも行かなくても、花を模した人工的な強い香りが胃と脳を刺激してくる。体にまとわりついて落ちない。神経が昂り眠れなくなる。

一生こうなのかな、と思うようになってきた。

ずっとじんわり冷たい悲しさと同居しながら、何もせず何もできず。

あぁ、こういうのを“loser”って言うのかなとようやく自覚した。映画でよく聞くやつ。

みんなわたしみたいにならないでね。

変だなと感じたら、すぐに心療内科に行ってね。

それは心療内科に行けばすぐ治るとか間違いないとか保証するわけじゃなくて、メンタルヘルスに関わることについて専門家のサポートに繋がることに慣れておいてほしいという意味。

なぜなら、それが鬱の場合、わたしたちから治ろうとする力を奪うから。

生きて元気で楽しいことをしたいという意志を奪うから。

全ての意味を奪って完全な闇のなかに閉じ込める。冬虫夏草みたいに寄生して。

わたしにいつか社会生活や意味が戻って満足のできる寛解状態が訪れるかどうかは疑わしい。

Twitterを見たり本を読んだりお話を書いたりして、ずるずる終わりの時間を引き伸ばしている。

これは希望の話として終わらない。

だけど今は元気でがんばれるみんなたちの調子が少し傾いたとき、友達や家族と過ごしてもなんだかいろんな感覚が鈍って意味をなさなくなってきたとき、わたしの後悔を利用してもらえたら嬉しい。

そしたらようやくわたしも自分のこの理由のない悲しさと生き続けないといけない現実に意味が感じられる。

アーモンドチョコ[ショートストーリー]

(注意 精神疾患の症状についての表現があります)

 

 

階下でカランカランと空缶の転がる音がした。

私は閉じていたまぶたを上げて床に横になったまま何の音だろうかと考えた。母は仕事に出かけているし、誰かが訪ねてくるなんて話も聞いていないのでリビングあるいはキッチンで缶が転がる音がするはずはない。泥棒でも入ったのかな、とぼんやり思った。

けれどどうでもよくて、もう考えることに疲れて、スウェットのフード越しにひんやりと気持ちの良い床に頬を押しつけてまた瞳を閉じようとした。

私の頭側から小さな1ミリくらいの羽虫がよちよちと歩いてきた。まるで私を動いたり潰したりする危険のない岩のように、目の前を、鼻先を、唇の前を、歩き過ぎていく。私はその様子を見つめて、ふうっと息を吹きかけてみた。羽虫は小さな体の華奢な6本足をぎゅっと踏ん張り体よりずっと大きな透けた翅をばたばた揺らしながら耐えていた。私の気まぐれが止むと、まるで見限るように大きな翅を広げて部屋のどこかへ飛んでいってしまった。あの子もどこかで死ぬのだろうか、窓にぶつかって、外は見えるのに出られなくて。あるいは蜘蛛の巣に絡まって食べられて。私に踏み潰されて、あるいはただ飢えて。

もう夕方だというのに、今日はなにも口にしていなかった。薬も飲んでいない。このまま床にいたいと思ったが、母親に更なる心配をかけるのは避けたいなと思った。私はパジャマの上にフーディーを着た格好のまま裸足で立ち上がり、階段を降り始めた。そうだ、泥棒がいるんだった。でも、そんなことどうでもよかった。鉢合わせて殺されるならそれはそれで。

キッチンにたどり着いても誰もいなかった。コップに水道水を注いで、カウンターの上に見つけた4個入りのミニクロワッサンの袋を手にリビングに向かった。リビングにいたのは泥棒ではなく弟だった。ソファの前のカーペットに胡座で座りテーブルに突っ伏している。ビールの空き缶が散乱していた。

寝ているのだろうかと思い、私も音を立てないようにそっと向かい側のカーペットの上に座った。ところがテーブルに水を置きクロワッサンの袋をバリっと開けたとき、のっそりと顔を上げた弟の顔は濡れていた。飲酒で赤くなった顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていて、顔を押し付けていたシャツの袖は雨に当たってきたようにびっしょりと濡れていた。私は驚いた。お互い大人になり離れて暮らすようになって長いとはいえ、弟がこんな顔をしているところを見るのは7歳より後にあっただろうか。彼はいつだって陽気な楽天家だったのだから。心配性のリアリストは私のほうだ。私は黙ってカウンターからボックスティッシュを取ってテーブルの上の弟側に近いところに置いた。

「大丈夫?」

私が尋ねると、鼻を噛んで涙を拭いながら弟は頷いた。けれど拭う先から涙が溢れている。ティッシュの束を目に押しつけて口を歪め、声を上げないように泣き続けていた。

私はミニクロワッサンを食べた。食欲はなかったが、端から小さくちぎって口に運ぶ。咀嚼する。唾液が出てきて口の中が糊状になるのが気持ち悪いので水を少し含んで飲み下す。それを何度も何度も繰り返して、ようやくひとつ目のミニクロワッサンを完食した。その頃には体が食べることと食欲を思い出していて、少しくらい大きめにちぎっても飲み下すことができるようになってきた。私がそうして地道な努力の末にふたつのミニクロワッサンを食べ終えた頃、ふと視線を感じて弟の方を見ると彼は私の様子を厳粛な儀式の拝観者あるいは心ここに在らずの凝視で見つめていた。私は水で最後の糊を飲み込んだ。

「どうしたの?」

弟はしばらく何も答えなかった。号泣の後のぼんやりとした微熱の中にいた。言うべき言葉が目の前をふらふら泳いでいるのをようやく捕まえ私の顔を見ずに発した。

「喧嘩した」

私は頷いた。

「ひどいの?」

「別れた……かもしれない」

そう言って弟はまた涙の発作に顔を歪めた。私には経験のないことだがカップルというものは一緒に住むと色々と諍いが起きやすいというのをあちこちで聞いたことがある。聞いたことはあるけれど、私には言える言葉が何もない。慰めになることも、笑わせるようなジョークも。いや、いまこのタイミングでジョークは絶対にやめた方がいいけれど。私は3つ目のミニクロワッサンの表皮を小さくむしりながら慎重に尋ねた。

「その……話したい?なにがあったか?」

弟は首を横に振った。横に振ったけれど話し始めた。彼には昔からこう言うところがある。

「最初は大したことじゃなくて、ほんとに、もう覚えてないんだよ。でも言い合ううちにどんどんおかしな方に行って、どっちもすごい怒って、訳の分からない怒りの妖怪みたいなやつに乗っ取られたみたいに思ってもない事どんどん言って罵って。最後はあいつはもう完全に呆れてたんだけどそれが逆にもっと腹が立って、それで俺から別れるって言って出てきた」

私は弟の喧嘩の顛末を聞きながらミニクロワッサンの全身から表皮だけを剥ぎ取り脱皮させ、茶色い表面の屑だけ掌に集めて口に入れた。それからまっしろくなった中身の方をまた小さくちぎり始めた。

「つらいね」

私の感想に弟が頷いた。人は時々バカなことをしてしまうものだ。最も大切な人を傷つけて背を向けたり、そのせいで全身がバラバラに引き裂かれて心臓がひどい痛みに縮み上がっているのに酒を飲むしか思いつかなかったり。

それから私たちはまた無言に戻り、カーペットに向かい合わせに座ったまま、私はクロワッサンを小さくちぎり、弟は完全にぬるくなった缶ビールの残りをあおった。夕方のひんやりとした空気がどこからか寄せてきた。曇り空から顔を出した西日がレースのカーテン越しに窓から差し込んでいた。夕方のチャイムが鳴って近所の子供たちが大騒ぎしながら帰って行った。私たちはただ、リビングで無言で座っていた。

「あ、そうだ忘れてた」

弟が買い物袋をゴソゴソと探って私に箱を手渡してきた。アーモンドがチョコレートでコーティングされたコロコロとしたチョコレート菓子の箱。

「え、なんで」

唐突に渡されたお菓子の箱に私は文脈が理解できなくて狼狽えた。頼んだことがあっただろうかと記憶を振り返っていると、弟はちょっと口を尖らせて弁解がましく答えた。

「姉ちゃん昔それ好きだったじゃん。おれが勝手に食ったらぶん殴るくらいだったくせに。それにナッツもチョコもセロトニンに良いとか言うんでしょ?」

私はその日はじめて笑った。いや、数週間ぶりだったかもしれない。にこにことして、心から嬉しかった。

「ん、ありがと」

その時、弟のスマートフォンがソファの上からピリリリとけたたましく着信を知らせた。弟は画面を見るとオロオロとした様子で私に顔を向けた。その顔を懐かしいな、と思った。彼が5歳の時に一緒に迷子になった時と同じ顔だ。私の助けを求めている。でも同時に、私と一緒にいるからきっと何とかなるはずだと信頼している。

「彼氏?」

私の質問に頷きながら弟が上ずった声で言った。

「どうしよう?出たがいいよね?でも、もし……

「でももし何を言われても少なくとも謝れるでしょ?切れちゃうよ」

私は水の半分残ったコップとチョコレートの箱とカウンターの上の処方箋の袋を掴むと弟に親指を立てたダサいジェスチャーで応援を送り、プライバシーのためにもそそくさと階段に向かった。

自室に入ると小さなサイドテーブルに薬のシートを出して錠剤を押し出した。食後に一粒ずつ、食後に一粒ずつ、私はマントラのように胸の中で唱えながら多すぎも少なすぎもしない指示通りの数の薬を飲み込み、水をゴクゴクと飲み干した。

階下で性急な足音がした。玄関が開きそして閉まる。

どんな電話だったのだろう、大丈夫だったのだろうか、心配する考えが頭にぐるぐるととぐろを巻き始めたので私は弟から渡されたチョコレートの箱のフィルムをするすると開けた。つやつやとした丸いアーモンドチョコレートをひとつ口に入れてまず甘さを舌の上で溶かし、奥歯でガリッと中心まで噛み砕いた。そうだった、確かに私はこれが好きだった。すっかり忘れていたけれど。ベッドに横になり、寒さのためではなく安心を求めてブランケットを体に巻き付けていると充電器に挿しっぱなしにしていたスマートフォンが震えた。メッセージは弟からだった。

『仲直りできた!ありがと!』

泣いている絵文字付きのひと言に安堵する。よかった。あんなに傷ついている弟の姿は初めてだった。上手くいってよかった。そして、私にとっても。私もまだ、誰かのために何かができてよかった。

もう一度スマートフォンが震えた。

『姉ちゃんも、話したい時とかいてほしい時とかいつでも言ってな』

私は泣きたいのに吹き出してしまった。クツクツと笑いが止まらない。さっきまでわんわん泣いていた弟の大人のような言い草になのか、あまりに嬉しいことを言われたせいなのか自分でもわからない。ベッドの上で震えながら返信を打った。

『了解、ありがと』

それから少し考えて付け加える。

『チョコおいしかった。また買ってきて。あと彼氏によろしく』

私はブランケットの中で丸くなってスマートフォンの画面を何度も何度も眺めた。胸がいっぱいでクスクス笑いながらどんどん涙が出てきておいおい泣いていた。こういうのはとても良いなと思った。素晴らしい夕方だったなと思い出して、またブランケットの繭の下で泣いて笑った。

フルーツ[ショートストーリー]

(注意 鬱病など精神疾患に関する表現があります)

 

 

小さなノックの音がした。開けっぱなしの扉をそっと押す気配のあと真っ暗な部屋にペタペタという裸足の足音が広がった。

リサはベッドに近づくと丸いホイップクリームのような布団の塊にむけて小声で話しかけた。

「ただいま」

ホイップクリームはごそごそと動き、端から人の頭と濡れた黒い目を出した。

「ごはんたべた?」

黒い瞳がまぶたを閉じてかすかに頭を振る。

「痩せちゃうよ、痩せないでよ」

リサはそう言って無理やり布団の塊を抱き抱えながらベッドの端に横になる。

「ミナ、電気つけていい?」

布団の中からくぐもった拒否の声が返される。

「でもミナの顔見たい。スタンドだけにするから」

今度は布団の中から何も聞こえなかったので、リサはベッド脇の小さなナイトスタンドのスイッチを入れた。オレンジっぽいLEDライトがぽっと灯ってふたりを照らした。ミナが布団から顔を出してリサを見つめた。頬に涙の跡があり目も腫れていて唇は噛みすぎて赤くなっているし、髪はボサボサだ。リサは手櫛で軽く整えてやる。そのままでも愛おしいことに変わりはないけれど、触れるための口実だ。こういうときのミナは触れたり触れられたりすることに神経質になっているから。

「ごめんね」

ミナが呟いた。

「ん?どうして?」

「なんにもしてないから」

「わたしだってしてないよ。晩ごはんも冷凍パスタ買ってきちゃった」

「すごくつらくて……

「うん」

リサは、そんな日もあるよ、という言葉を飲み込んだ。最近のミナは「そんな日」が続いているし、それを当事者ではないリサが口にすれば風に舞うペラペラのポリ袋くらいの薄っぺらさでミナの耳に届くだろう。代わりにベッドの上で布団の塊になっているミナにもっと密着して回した腕にもっと力をこめる。

「あした起きれたらフルーツ買いに行こうよ。ちょっと行ったところに変な八百屋があったじゃん、すごいセレクトショップみたいな店構えの。木箱に英字新聞とか詰めてて、大根がそこにきっちり立ててディスプレイされてるの」

ミナは布団に顔を埋めて押し殺した笑いを漏らした。リサの胸に温かい喜びが広がっていく。

「ぜったいロゴ入りの紙袋とかに入れて渡されるよね。前通りかかった時はチラッと見ただけだけどさ。フルーツいま何が旬なんだろ」

リサは旬なんてものにはまったく無知なのでひたすら知ってる果物の名前を上げていく。スイカ?いちご?パイナップル?りんご?桃?メロン?みかん?ドラゴンフルーツ?

その度にミナがクツクツと喉で笑っている。リサに本当に当てるつもりなんかない。ミナを笑わせる可能性が少しでもあるなら何時間でも知っている限りの果物を挙げ続けるだろう。

「ブルーベリー」

ミナが微笑んで言った。

「ミナ何でも知ってるね」

「でも売ってるかは分からないよ」

「なかったらお高くとまってる大根を買おう」

リサはミナのおでこにキスをしてそれから唇にもすこし遠慮がちにやさしく触れた。ミナはようやく布団から両腕を出して自分を抱きしめているリサの背中に手を回した。

「でも、行けるか分からないよ」

リサの顎の下でミナの声が震えた。リサはワイシャツの胸が濡れたように感じた。ミナが泣いているのだろう。

「いいよ。そしたらわたしが証拠写真撮ってきてあげる」

「こんなこと続けなくていいんだよ」

今度はリサが泣きそうになった。ぎゅっと目をつぶって息を止めて急に襲ってきた悲しみをやり過ごし、息を吐く。

「いてほしくないならいなくなるけど、いさせてよ」

苦しい思いをしているのはミナなのだから平静を装うつもりだったのに、リサの声は自分で狙ったほどしっかりしても明るくもなく、ほとんど懇願していた。

「わたしといるとリサまで暗い気分になるよ。良くなるか分からないんだよ。ずっとリサがわたしのお世話するばっかりになってるじゃん。わたしリサの迷惑になりたくない」

リサはミナのあちこち向いて乱れた肩までの髪を撫でながら考えをまとめて慎重に言葉を選んだ。わたしはいまミナに捨てられようとしているのか、という恐怖を黙らせて心のロッカーに閉じ込め鍵をかけてゆっくり口を開いた。

「ミナ、付き合う前に飲み会でわたしがめちゃくちゃ酔っ払ってトイレで吐いたとき汚れないように髪を押さえててくれたこと覚えてる?そのあとろくに歩けないし終電も逃したわたしのこと連れて帰って泊めてくれたことは?転職のとき自己アピールの内容ほとんど考えてくれたことは?誕生日に旅行企画してくれたのにわたしが食中毒になって行けなくてずっと家のトイレにこもって泣いてたとき付きっきりで看病してくれたことは?

愛するってがん保険の審査みたいにはできてないんだよ。この病気になったからダメなんて基準はないし大変だからやめるはずなんて決まりもないの」

「でも……

リサは頭を振ってミナの言葉を遮って続けた。

「もし本当にわたしも暗い気分になるならわたしもセラピーに通うからそれでいいでしょ。お願いだから今わたしを捨てるのはやめて。また今度にして」

ミナは顔を上げて驚いた目をリサに向けた。

「捨てないよ」

「よかった」

それからスウェットに着替えたリサとスウェットのままのミナは手を繋いで寝室から出て、リサの買ってきた冷凍パスタを温めて食べ、ソファでくっつきあって小さなテレビ画面で古いコメディ映画を見て過ごした。ミナはリサの肩に頭をもたせかけ、リサはミナの瞼に何度もキスをした。ふたりともこの瞬間が永遠に続けばいいと思った。

窒息

(注意 精神疾患を患っているので憂鬱な話ばかりしています。気をつけて下さい)

 

良い気分とは言えない。

そこからどう抜け出せばいいのかわからない。

それどころか、抜け出したとき、自分がどうなるのかもわからない。

あまりに長い期間、わたしは自分の病んだ精神状態に慣れきり定義されてしまっている。

そこから放り出されて「普通」になったとき、わたしは何になるのだろう。

あらゆるものに挑戦するには遅すぎる。愛を探すにも遅すぎる。まともな収入を探すにも遅すぎる。「人生に遅すぎることはない」けれど、苦痛を伴わないとは言っていない。

回復も、それが訪れないことも同時に怖い。

あまりに長すぎたし、あまりに慣れすぎた。

わたしはこの空気を通さない灰色の分厚いフェルトのなかに押し込まれて、じっとただ与えられているわずかな自由を感受するしか生きる術がない。

おもちゃのかけらしか残ってないなら、おもちゃの欠片で遊ぶしかない。

でもそれになんの意味がある。

どうしてこれを続けなければいけない。

なんでもいい、なんでもいいからこれを取り除いてほしい。

いつまで続くんだろう。

あと何度繰り返すんだろう。

あと何度耐えられるんだろう。

追う者たち[ショートストーリー]

(注意:差別的および暴力的な言葉の表現があります)

 

 

浅いまどろみの中にいたシグをイゴーが揺り起した。

「見ろ」

シグはイゴーの視線の先に目を向けた。そこには見たことのない巨大な生き物の腹があった。

シグはコンソールの上に身を乗り出し、フロントガラスに顔を近づけてそれを見た。全長1kmはあろうかという巨大なそれは銀色に輝く腹をこちらに向け、推進のために躍動するたび紫や緑に色を変えながら輝いている。

「まるで動くネビュラだな」

シグが感嘆して言うと、イゴーは鼻を鳴らして返事をした。シグは気にせず感想を重ねた。

「あれが例の鯨か?はじめて見たよ」

「凶兆さ」

「故郷のオーロラにも似ている。あれはプラズマの発光だけど……これは生きているのか?」

好奇心をむき出しにガラスに張り付くシグとは対照的にイゴーは苦々しくそれを睨んでいる。

「だれにもわかるもんか。どうやってあのでかいやつを捕まえて腹を裂く?それに、おれたちの目当てはあいつじゃない」

シグはようやくシートに体を戻してセンサーをオンにして周辺に異常がないか確認した。

ごく単純なソナーのような装置だ。何かが通れば画面に現れる。

「当たりだ」

イゴーがにやりとした。

小さな凧のような宇宙船が、すぐそばの惑星へ下降していった。

 

『スプルクス』と人々が呼ぶ宇宙人を追う民間のハンティング企業に入り、シグは今回が初めての任務だった。イゴーは大ベテランだがそれでもそれらを見つけるのに2ヶ月かかった。イゴーは鯨とスプルクスの不思議な関係を長年の勘で知っていた。といっても、鯨が通れば奴らが通る、という程度のものだが。

人類によるスプルクスの「発見」は30年ほど前であり、いまだその生態はほとんどが謎につつまれている。シグたちの仕事はスプルクスの生捕り、もしくは死骸の回収であり、会社の仕事はそれを研究所に売ることである。もちろん生きていればそのぶん価値が上がる。しかしイゴーは頑ななほど殺害にこだわっていた。

「あいつらは侵略者だ」

長い長い追跡の退屈さの中である日イゴーが言った。それは狭い宇宙船に閉じ込められ孤独に飛び回る間、自らに何度も言い聞かせていたと容易にわかるほど滑らかで確信に満ちた口調だった。

「あいつらはひとの土地に降り立つ。取れるものを取って荒らし回り、気が済んだら次の星に行く。それを延々繰り返すのさ。土地も人も食い物も女もみんなあいつらが奪っていく。おれはそんなやつを野放しにしておくわけにはいかない」

シグは黙って聞いていた。そういうものなのか、と思った。

 

凧の後を追ってイゴーは船を惑星へ向けた。気づかれないように近付くためスプルクスの着陸地点から500kmほど離れた砂地へ降り立つと、ふたりは手早く必携品をバックパックに詰めた。数日は野営をすることになるだろうと踏んで水と携帯食を多めに入れていく。シグは捕獲のための準備を確認した。イゴーは殺傷用の武器ばかり担いだ。空気は吸えなくはないが万が一に備えてふたりとも濾過のためのマスクをしゴーグルをはめた。船の貨物庫からクアッドバイクを引き出すと、それぞれ自分の荷物と共に跨って目的地へと走り出した。

 

明るく、乾燥していて、快適な星だった。シグとイゴーは東のうっすらと緑がぼやけて見える地平線へ向けてでこぼこの砂地に四輪を取られながら進んでいた。目の前を四本脚の生き物が集団で横切って行った。シグはガゼルに似ていると思った。途中で2度休憩を取ったがふたりともあまり会話はしなかった。暗くなる前に詰められるだけ距離を詰めたかったので黙々と走った。どこまでも広く平坦な砂地が広がっていた。右にも左にもただ地平線があるだけで、前方の緑のモヤさえ現実のものかどうか不安になるほど遠い。奇妙な宇宙人を追いかけているという仕事さえなければ美しいと言っただろうな、とシグは思った。ごみごみと人がひしめき、土地の多くが汚染されている故郷から見れば、文明の気配のない、爽やかで広々としたこの星は間違いなく美しいだろう。大地の大きな背の上で清らかな孤独を感じられるというのは贅沢なことだ。シグはあやういところでハンドルを切り岩を避けた。イゴーがチラリと目を向けた。シグは物思いを振り払いスピードを上げた。

 

「今日はここまでだな」

イゴーがクアッドバイクから降りてバックパックを下ろした。シグもそれに倣い、ゴーグルを外す。シグのくるくると巻いた黒い髪は今では砂が絡みこんでいた。急速に暮れた日の残りを頼りにランプを取り出して灯すと周囲がぽっとオレンジ色になりその光の届かない場所を一段と暗くした。ふたりはそれぞれ冷たい携行食の封をあけてフォークを突っ込み、無言のまま咀嚼した。どのような生き物がいるか分からない場所で火を熾すことは躊躇われた。食事が済むとイゴーはステンレスのフラスコを取り出して大きくふたくち飲み、シグにも勧めた。シグはほんの少しだけ口に含んだ。強くて煙のようなきつい風味のする酒だった。シグは無理やり飲み込み、むせながらフラスコを返した。イゴーはにやにやとしていた。

「シグ、お前はなんでこんなことに足をつっこんだ?」

イゴーの唐突な問いにシグは驚いた。すこし考えて答えた。

「貧困。他に理由がいる?」

イゴーは笑った。体格に似合った大柄な笑い方だった。

「あぁ、そうだな。まちがいねぇ。生き残るには故郷で犯罪者になるか、宇宙で宇宙人を殺すかのどっちかだ」

盛り上がった肩をいつまでも揺らして笑っているイゴーに、シグは問い返した。

「あんたはどうしてこんな仕事をしている?」

シグはこの2ヶ月間一度も尋ねなかったことを口に出した。それまで疑問に思わなかったことも、今どうしても聞いてみたいと感じていることも、どちらも不思議だった。

「おれの親父は軍人だった。じいさんも軍人だった。おれもそうなるつもりだった。なぁ、スプルクスの発見のときのことは覚えているか?」

「いや、まだ生まれていなかった」

イゴーは頷いた。

「あのときはすごい騒ぎだった。おれたちの中に宇宙人がまぎれこんでいたんだからな。連日ニュースはその話で持ちきりだった。おれは15だった。すでに国のために命をかけて戦うつもりだった。それなのに宇宙からの侵略者はすでにすぐそこにいたんだ。絶望したよ。そんなやつらから家族を守れるのか?他国との戦争にあくせくしてる隙におれたちの庭先やベッドにあいつらが潜り込んでてなにが軍人だ」

シグはじっと耳を傾けていた。イゴーは声を荒げなかったが一言一言に強い憎しみを込めて発した。ランプに向かって飛んでくる羽虫の立てる音のほかはまったくの静寂だった。しばらくしてイゴーはランプの光を小さくして言った。

「おれが先に見張りをする。お前はもう寝ろ」

シグは頷くと排泄のために光の届かない岩陰まで歩いていき、用を足して戻ってくると自分の寝袋を広げて潜り込んだ。地面はまだ昼間の熱をもっていてじんわり温かかった。

「ほら、冷えてくるからこれもかけとけ」

イゴーに手渡された毛布を寝袋の中に引き入れて体に巻きつけると、シグはすぐに眠りに落ちた。

 

空が明るくなり始めると、シグが起こすよりも早くイゴーは寝袋から這い出してきた。

夜の間に冷え切った地面に座り切りつけるような空気のなかで温かいものを口にできないのはつらかったが、シグもイゴーも固形の携帯食料を噛み砕いて水で流し込むとすぐに出発の準備に取り掛かった。

日暮れ前には追いつく予定だったのでふたりはそれぞれのバックパックの中身も詰め替えた。野営の道具を下へ、武器や捕獲機材を手に取りやすい場所へ。食料と水の残量を確認し背負いあげると、クアッドバイクのエンジンをかけて再び東へ走りだした。

 

昨日とは景色が変わり始めた。地面の起伏が増し、岩がごろごろと前方を塞ぐようになり、シグとイゴーはしばしば迂回を余儀なくされた。生き物の気配も増えた。小型の爬虫類のような、岩陰を好む生き物が潜んでいるのが目の端をかすめる。そして植物も、そこかしこで乾燥した砂地にしがみついていた。そのいびつで水に貪欲な植物のそばには、昆虫のような小さな生き物たちが集まっている。生き延びるための行動というのはどの星のどの生き物でも変わらないのだなとシグは思った。

 

その日の最初の休憩をとろうとイゴーが言ったとき、遠くに木陰が見えた。近づくとそれは背の低いねじれた樹木植物だった。豊かに広がった枝葉にはイゴーの手のひらならふたつはおさまるくらいのこじんまりとした実がたわわに実っていた。携帯型の成分センサーを挿しても毒性はなさそうだったので彼らはそれを昼食に食べることにした。りんごとすももの間のような感じで酸味が強かった。強い日差しと乾燥に晒されて走ってきた体に染みた。風にさらさらと鳴る木陰は天国のようで穏やかだった。熟れすぎて落ちた実に寄ってきた小さな羽虫たちがぶんぶん言っていた。

シグはイゴーに尋ねた。

「昨日、スプルクスの発見時は人間に紛れていたと言っただろ。公開されているスプルクスの研究レポートにもそういうことが書いてあった。彼らは姿を変えると。今回のやつもすでに違う姿になっていることはないかな?」

「おれがこれまで追い詰めたやつらはみんな袋詰めの水銀みたいな姿をしてたな。おれはそんなレポートなんか見ちゃいねえし知りたくもねえが、やつらが姿を変えるっていうのは本当だ。それも出来損ないみたいな中途半端な変わり方をする。よほど工夫して隠してない限り、見分けられないことなんかねぇよ」

イゴーは垂れた汁に悪態をついて舐めとった。シグは実をいくつか余分に採って布に包みバックパックに入れた。

 

スプルクスの船が着陸した地点はまだ15kmほど先だったが、ふたりはクアッドバイクを停めてそこから先は歩くことにした。小回りがきかずエンジン音のうるさいバイクは邪魔になるだけだ。バックパックもそこに置き、必要な武器と水だけを身につけて、今ではほとんど身の丈をこえるほどの巨石や樹木だらけの中を分け入り進んだ。木々のおかげで日が遮られ涼しく快適だったが、ブーツの底がしばしば岩場で滑った。マスクの下で息を荒げながら、なんとか歩き続けた。シグは中年をこえているはずのイゴーの敏捷さをうらやんだ。ごつごつとした風景のなかでイゴーはまるでそこで生きてきた山男のようだった。シグは必死でイゴーの巨大な背中を追った。

 

岩場を抜けると湿度が上がった。昨日までの砂だらけの荒地が嘘のように、目の前にはぬかるんだ湿地が広がっていた。オレンジや黄色の藻類が鮮やかに繁栄している。防水とはいえそこにブーツを踏み入れることにシグは躊躇した。幸い、水の浅い部分を歩くことができた。

「止まれ」

イゴーの注意に足を止め耳を澄ますがシグの耳には何も聞こえない。しかし音ではなかった。イゴーが指さした場所に目を凝らすと、なにかの足跡のようなものが点々と続いている。

「やつらかな?」

「おそらくな」

イゴーは遠くまで周囲を見回し、その足跡を追ってゆっくりと進んだ。シグはできるだけ足音を殺しながら後に従った。緊張が高まっていた。シグにとってははじめての生のスプルクスとの遭遇となる。どのような姿をしていて、どのような声を出して、どのように動くのか。また初めての任務で実績をあげることができるかもしれない期待も膨らんでいた。イゴーは本当に殺すつもりだろうか。シグは捕まえたかった。

 

足元のぬかるみが固くなり、木々と岩がまだらにごろごろとした場所に辿り着くころ、イゴーが前方を向いたまま背後のシグに拳を上げて止まるよう合図をした。今度はシグにもわかった。前方50mほどの木の影につるつるとした鉛色の生き物が屈んでいるのが見えた。

「スプルクス……」

シグは感嘆の溜息をもらした。思っていたより小さく、無毛で、二足歩行だがチンパンジーのように両腕に当たる部分が長い。裸の体はぬるりとしていて人間のような生殖器による凹凸がない。いやそういうスーツのようなものを纏っているのかもしれないがそれはシグにはわからなかった。

イゴーが担いでいた狙撃向きの大型の銃を地面に下ろし組み立て始めた。

「おれが仕留める」

有無を言わせぬ圧があったのでシグは頷いた。

スプルクスはふたりいた。少し大きいほうと小さいほう。どちらも見た目にはほとんど同じに見えた。彼らがイゴーに気づいている様子はなかった。ただ地面の植物を指差してはなにかを言い合ったり、木の皮をむしったりしていた。イゴーは銃を抱えて狙いやすい場所に移動して行った。シグも後に続いた。

 

距離を詰め、岩陰に身をひそめ、イゴーは宇宙人たちに銃口を向けた。しかし引き金がしぼられるより先に鉛色の顔がはっとこちらを見た。木立の深い方へ走り出した。イゴーは悪態をつき、短銃に持ち替えると後を追って森のほうへ追って走った。

「待て!とまれ!このクソ野郎!」

木や岩に隠れながら逃げてはいるが、スプルクスたちはあまり速くは走れないらしい。加えて彼らに不運なことにすぐに開けた砂地に出てしまった。5mほどの距離をあけてスプルクスとイゴーは向き合った。シグも追いついたが、どうしたらいいのか分からない。イゴーは顔を真っ赤にして唾を飛ばし叫んでいる。

「逃げやがってクソの侵略者どもが!跪け!ほかの仲間は!おい跪けって言ってんだ!」

スプルクスはガタガタと震えていた。大きいほうが小さいほうの体に腕をまわし自分の後ろに守るように隠している。小さいほうはツバメの雛の鳴き声のような悲鳴を上げ続けた。ふたりともシグの目には死を予感して恐怖し怯えているように見えた。巨大な瞳は透明なすみれのような色だった。

 

一瞬の間にすべてのことが起きた。

急に昼が夜になった。イゴーは大きいほうのスプルクスに引き金を引いた。狙いは外れた。シグは自分の鎮静用の銃を撃った。それはイゴーを狙い、当たった。イゴーは地面に倒れた。

 

シグは呆然と、動かなくなったイゴーを見下ろしていた。スプルクスたちはシグを見ていた。シグが銃を構えたままでいたので、どうなるのか様子を見ていた。周囲は暗闇だった。

か細い音が聞こえ始めた。小さいスプルクスが真っ暗な空を向いて音楽のように節のついた音を発していた。

「なんだ?なにをしている?」

シグは銃口を宇宙人たちに向けて尋ねた。大きいほうのスプルクスがなにか声を発したがシグには意味がわからなかった。ふいにジャケットの胸ポケットに入れていた翻訳機のことを思い出した。イゴーは出港してすぐに放り捨てたが、スプルクスの現在までの言語研究の結果は反映されているはずだった。不十分でも無いよりはマシだろうと電源を入れた。

『……祈っている……鯨……神……導く……』

間には不明瞭な雑音がしばしば挟まった。銃を向けられ、更に翻訳機を突きつけられ何度も話すよう身振りで命じられたスプルクスたちは哀れなほど身を縮めていた。シグはようやく成立したコミュニケーションに雷で打たれたような快さが走るのを感じた。

「鯨?鯨が通っているのか?あれもお前たちの仲間なのか?」

『……鯨……夜にする……わたしたち……追うだけ……』

「そうして行く先々を侵略するんだろう?イゴーの言う通りだ、お前たちは略奪者のクソッタレだ」

『……暮らすだけ……故郷……無くなった……汚染……わたしたち……生き延びたい……』

シグはそのあまりの凡庸さに力が抜けそうになった。ここまで追ってきたモンスターは攻撃する意思もなくただ震えながらふたりで小さくかたまり、信仰と暮らしの話しかしていない。もちろん嘘の可能性もあるが、少なくとも2対1にも関わらず心底怯えていた。

「それならどうしてあちこちに現れる?適当な星に移住しない?侵略してまわっているんじゃないのか」

『……姿……変わってしまう……ほかの星……わたしたちでいられなくなる……こわい……』

シグにはもう、スプルクスを殺す気も捕らえる気も残っていなかった。自分のなかが空っぽになったと思った。シグは銃を地面に置き、数歩後ろに下がると宇宙人たちの顔を見つめたまま翻訳機に向けて囁いた。

「行ってくれ」

スプルクスたちはじっとしたまま見つめ返した。闇の中でも巨大な瞳は光っていた。

「危害は加えない」

シグは翻訳機も地面に置いた。両手を上げて敵意のないことを伝えようとした。人間のジェスチャーが他の知的生物にも伝わるといいがと思った。

スプルクスたちは踵を返すと走り出した。5分ほどしたころ、鯨が遮っていた陽が再び差し始め、昼が昼に戻った。遠くで凧のような宇宙船が飛び立っていった。

 

シグは自分の鎮静用の銃と翻訳機を拾い上げて仕舞った。それから倒れているイゴーを揺り起した。

「なんだ、なにが起きた」

イゴーはぼんやりとした顔でシグに尋ねた。

「鯨だよ」

シグは肩をすくめた。

「それであの宇宙人どもは」

「逃げた」

イゴーは悪態をつき始めた。シグの腕を借りて立ち上がり歩き出すまでまだ罵っていた。

「あのクソッタレの略奪者の汚ねぇウジ虫野郎どもが!次こそ殺す!殺して死体に唾を吐いてやる!」

辿った道を戻り狙撃用の銃を解体しながらもイゴーはまだ顔を赤くしてスプルクスを呪っていた。

「イゴー、黙れ」

シグはイゴーを振り向いて言い、クワッドバイクを置いた岩場に向けて湿地に足を踏み入れた。