toripiyotan

何回もおなじこと喋る

近付く[ショートストーリー]

(前作:ペン[ショートストーリー] - toripiyotan

 

週初めのばたついた雰囲気が落ち着き始めた午後の休憩中に、真島はフロア中が振り返るような驚きの声を上げた。とはいえ、営業部はほとんどが出払っている。目の前で顔をしかめているのも事務のパートさんだけだ。

「制作の古宮さんが?辞めるって?いつ?誰に聞いたんですか?」

今度は少しボリュームを抑えて尋ねた。驚きはまだ去っていないが、なんとか冷静さを取り戻す。

3階はみんな知ってますよ。今月いっぱいらしいんですけど、でも有給消化があるから今週くらいで来なくなるんじゃないかしらね。お友達が独立するとかで一緒にって誘われたんですって。すごいねぇ」

小規模な会社内でまだまだ新人扱いされる入社3年目の社員である真島などよりよほど情報通の中年の事務パート社員は、その後も制作部のあらゆるゴシップをペラペラと喋っていたが、真島は何一つ聞いていなかった。

 

古宮さんが、退職する。

知らなかった。

真島にとって古宮は部署違いの先輩にあたる、憧れの人物だ。社内では上からも下からも人気があって、騒がしくはないが親切でユーモアのセンスがあり、発想が斬新だが会社の方針も十分理解していて手際が良く、事実上制作部の中心。いわゆるベテラン社員である。

そんな古宮のボールペンを偶然拾って返したときから、真島はようやく古宮の視界に入れた。入れたものの、そのとき一度夕食を共にしてからは時折廊下で挨拶をする程度の関わりしかない。

どうしようどうしようどうしよう

真島はテーブルに肘をつき額を手のひらで支えて考え込んだ。

このままでは人間関係など消滅してしまう。同じ会社の人間という以上の繋がりなど無いのだから。

どうにかしなければ……

気づけばパートの坂田さんは目の前からいなくなっていた。

 

真島はシャイで人見知りだ。そういう人間は案外営業に多い。客先で社交的に振る舞っているからと社内でまでそうとは限らない例を、真島自身何人も見ていた。営業とは技術である。今こそその成果を発揮するときではないか。

 

翌日真島はできるだけ企画フロアに足を運ぶことにした。現在古宮と組んでいる案件はないが、他の社員との打ち合わせや内線で済むような連絡でも顔を出し「真島さんなんか今日めっちゃ来るね」と新人に鬱陶しそうに言われた。

しかしいざとなると古宮の方をチラチラ伺うだけで何かを言い出す勇気はなかった。そもそも何を言えばいいのか。

辞めるって聞きました、お疲れ様でした、次のところでも頑張ってください?

それ以上の言葉が思いつかない。また飲み行きましょうね、か?ほとんど酒の飲めない真島にとって最も縁遠くてわざとらしいセリフに思えた。

かといって今度コーヒーでもなどと海外ドラマのデートの誘いのようなことは言いたくない。そうではないのだ。では何なのだ。

 

週の半ばは忙しかった。一日中得意先を回って帰社するともう定時を回っていた。古宮に何も言えないまま時間ばかりが過ぎていく。

自分のデスクで鞄を置きジャケットを脱いで椅子にどさりと腰掛けた真島は顔を覆ってうめいた。

「どうした末っ子」

びゅーーーんと椅子に座ったままキャスターを転がし向かってきた営業課長が真島にガンッとぶつかって止まりガシッと肩を抱えてきた。

「やめてください古賀課長、ちょっとプライベートで悩んでるんです」

古賀は黒縁のセルフレーム眼鏡の位置を直しながら心から楽しそうに言った。

「仕事じゃないんかい。なおさら俺の守備範囲だ。話せ」

給湯室でたむろするパート社員たちの上をいくゴシップ通がいるとすれば古賀だ。社長の持病から清掃員の子供の年齢まで、古賀が知らないことはないと言われている。

社交的、あまりに社交的。

自分とは正反対と言ってもいいタイプの人間に、もしかしたら有益な何かを聞けるかもしれないと真島は思い直して姿勢を正した。

「仮になんですけど、仲良くなりたい人がいたとして、古賀課長ならどうしますか?」

「飯を食いにいってホテルに行く」

古賀の即答に、真島は今月イチ大きな溜息をついた。

「もういいです」

「待て、彼女もしくは彼氏ではない話?」

ムッとしながら尋ねる古賀に、真島は頷いて素直に答える。

「大人になってから友達になるって難しいじゃないですか。学生の頃はサークルとか授業とかが一緒で何人かでつるむようになって、とか自然と仲良くなれたけど、大人になっていざ仲良くなりたいと思ってもなかなか難しくて」

「俺にはさっぱり共感できない悩みだけど、かわいい若手のために知恵を授ける」

そう言って古賀はポケットからスマートフォンを取り出し、ぽちぽちと検索バーにキーワードを打ち込んだ。

「大人、友達、仲良くなり方、っと」

「課長、馬鹿にしてますよね」

悔しさを感じながらも古賀のスマートフォンを真ん中に額を寄せ合って真島は一緒に検索結果を読んでいった。

 

相手をよく観察すること、共通の趣味。

結局、真島が昨日のネット検索から引き出せた役に立ちそうな情報はそれだけだった。そしてそのどちらも、今の真島に欠けていた。

そもそも古宮さんは何が好きなんだろう。

何も知らないということに愕然とした。年齢もぼんやりと30代半ばくらいということしか知らない。結婚はしていないようだけれど、休みの日には何をしているのか、兄弟はいるのか。以前、会社のスポーツ大会で球技が恐ろしく下手くそだったことと、飲み会では誰よりも酒を飲むのにシャッキリと帰宅していくことだけしか知らなかった。必要な情報は少ないのに、時間はもうほとんど残されていない。

それこそ古賀に訊けばなんでも知っていただろうが、昨日の今日で尋ねたくはなかった。あらゆる社内情報を握ってもいるが、また情報の発信源でもあるのだ。その日のうちに全社員の知るところとなりかねない。それはなんとなく恥ずかしい気がした。

 

今日こそは!

階段を登り企画部フロアのドアを引いた。真島の目が自動的に奥から二列目、左から二人目の古宮のデスクに吸い寄せられる。その一列手前の他の社員の席へ近づきながらも意識はずっと古宮に向かっている。緊張でどきどきと脈が早くなった。

素知らぬ顔を装い、制作部の事務員に用件を告げる。

「真島ごめん!いずみちゃんちょっとこれも見といて!」

急に古宮の声で名前を呼ばれ文字通り飛び上がった。しかし古宮は真島と会話中のいずみと呼ばれた事務員に身を乗り出してぐいっと書類を押しつけるとすぐに自分のパソコンに顔を戻して猛烈にキーボードを打ち始めた。口には棒付きの飴が入っていてガリガリと噛んでいる。

「古宮さん、引き継ぎで今てんやわんやなんですよねぇ」

真島のびっくりした顔を誤解して、渡された書類を脇に重ねながらいずみが言った。

 

終わった。

こうして人間とはわかれていくのか。

金曜の夕方になり、真島は自分を呪っていた。

なぜもっと早くから話しかけなかったのか。なぜこの数年散々あった機会をみすみす逃してきたのか。いや、そもそも月曜の時点でどうして無理矢理にでも行かなかったのか。連絡先を聞いておくだけでも。

しかし全ては終わった。

どうしようもない。

古宮さんははすぐに忘れられるだろう。

そして自分も忙しく過ごすうちに忘れるだろう。真島はそう思うことで悔しさと情けなさを飲み込もうとした。週末で、続々と社員たちが帰っていくのを自動販売機の影から見送りながら缶コーヒーを啜り、片付けなければいけない残業に頭を切り替えて溜息をついた。

ペタペタと誰かが階段を降りてくる音がしたがベンチに腰掛け俯いたままでいると、自動販売機の前で足音が止まって人影が覗き込んできた。

 

「おっ、真島」

ベンチからガバッと立ち上がって顔を上げると、もう疲れてヘトヘトですと全身に書いてあるような様子の古宮が立っていた。

「お、ぉおつかれさまです……

頷いて、オレンジジュースを買って古宮がベンチに腰を下ろすと、真島もそのまま再びそっと座った。今週さんざん求めていた機会が今まさに訪れているというのに、真島は何を言ったらいいのか分からずひたすらコーヒーを啜った。

 

数十秒、あるいは数時間が経過したのち、真島がどうにか口を開いた。

「あの、会社辞めるって聞きました。お疲れ様でした」

考えていたことは全て消え、ありきたりな挨拶しか出てこなかった。しかし古宮は少し笑って答えた。

「一応、今月いっぱいだけどね。やっと引き継ぎも終わったから、明日からは休める」

疲労と達成感を滲ませてジュースを啜る古宮に、真島は少し迷った後視線を落として付け加えた。

「あの……次のところでも頑張ってください」

自分のスラックスの折り目を凝視している真島に、古宮は口を尖らせて言い返した。

「いやだ!次の話とかまだやめてくれよ〜!休む!」

先輩の子供のような言いように、真島は思わず顔を上げて微笑んだ。

「そうですね、ゆっくり休んでください」

古宮も真島を見た。ふざけたように、眉を上げておどけた顔をする。

 

これだけで良いのかもしれない、と真島は思った。切れない何かを求めて無理をしなくても、今この一瞬があれば、それを忘れなければ、それは十分幸せなことなのかもしれない。

 

真島はコーヒーを飲み干すとベンチから立ち上がって空き缶を缶入れに放り込んだ。

「じゃあ、もう少し頑張ってきます」

もう一度、お疲れ様でした、か、さようならとでも言うべきか悩んでいると、古宮が真島を見上げたまま口を開いた。

「真島、確か映画好きだったよね?明日マーベルの新しいやつ見に行かない?」

真島はあまりの驚きで固まった。古宮が映画に誘ってきたことと、真島が映画好きだということを知っていたことのどちらに反応したらいいのか混乱してどう返事をしたらいいのか分からない。ただ小さく、え?と情けない声を出した。

「周りみんな結婚したり子供いたり週末休みじゃなかったりするんだよね。大人になるとそうそう友達も増えないしさ。でも明日公開だから」

一人で行くより楽しいじゃんと言われて、ようやく真島は声が出せるようになってはっきり大きな声で答えた。

「はい……はい!もちろんです!行きます」

「じゃ時間とかラインするから」

古宮はジュースの缶をベンチに置き、ニコニコしてズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。

「楽しみだなー。あれ、あのCMでやってるバットマンとか出るあれ」

古宮が差し出しているQRコードを自分のスマートフォンで読み取ろうとしていた真島が盛大に吹き出した。少し前までの落胆からの気分の急上昇と不意打ちのおかしさで顔を真っ赤にして声を上げて笑った。古宮はなんなのか分からずきょとんとしている。

「こ、古宮さん、それマーベルじゃないですよ!」

笑いの発作の合間を縫って真島はマーベルとDCの違いを説明し、古宮の連絡先をアドレス帳に登録した。